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zoom RSS 祝福の種(The seed of Bless)(マルコ6:30-44)

<<   作成日時 : 2017/09/10 17:43   >>

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●マルコ6章30-44節 : 5千人、5つのパンと2匹の魚、余り12かご、続く場面の6:45-52では移動中の船で弟子たちは荒い波に遭い騒ぐが、イエス様は6:52で悟らなかったかと叱られた。

●マルコ8章1-21節 : 4千人、7つのパンと2匹の魚、余り7かご、続く場面は8:13-14で船に乗った弟子たちが餅を持ってこなかったということで騒ぐが、イエス様は8:18,21で見えないのか、聞こえないのか、覚えていないのか、悟らないのか、と叱る。

この記事はすべての福音書に記録されるほど、みんなにとってインパクトの強い出来事だった。忘れられないことだったと思われる。

ここでは、3つの祝福を分かち合ってみたいと思う。

1.神様は余るほど祝福してくださる
神様は彼らの必要をしており、最高の方法で満たしてくださった。人数の問題ではない、場所の問題ではない。必要の種類が何かでもない。

どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、(エペソ3:20)

神様は私たちが求めていないことまで、セットで余るほどにして祝福してくださる。皆さんの必要はどういうことであれ、神様は解決、だけではなく余るほどにして満たしてくださる。問題はそういう必要を神様にもっていかないことであり、真剣に祈らないことである。ここである弟子は5千人食べさせるのに200デナリが必要だというが、それはサラリーマンの7か月給料に該当するお金である。それをイエス様は瞬時に解決してくださった。

一人分が5千人分に変わった。一人分が4千人分に変わった。ある一人の小さい献身がここまで膨らみ、自分に人に祝福をもたらした。隠さず、差し出したそれが祝福の種となった。

神様は全ての必要を満たしてくださる。ただ、欲を満たすとは言ってない。というのは、欲は人間を腐敗させるからである。欲は必要を超えたことである。木に水やりをする時も適当はよいが、オーバーすると木は腐る。

2.小さい信仰や献身から奇跡や祝福は始まる
両方の奇跡においてその種となったのがある。誰かが差し出した少ない餅と魚だった。5千人奇跡では五つのパンと2匹の魚、4千人の奇跡では7つのパンと2匹の魚を誰かが差し出し、それをイエス様が祝福して5千人、4千人を食べさせたのである。もし誰も差し出せなかったならばどうだったでしょう。もちろん、それでも食べさせたかもしれない。しかしイエス様は、奇跡であっても私たちの小さな信仰や献身を種にしてそれを膨らませてくださるのである。いくら素晴らしい祝福であっても、私が祝福の種を植えることから始まる。ほとんどの人たちは、何もせずにただ祝福や奇跡だけを求めるようなことをする。それだけは十分ではない。もちろん、そういうことが不可能な場合はよいかもしれない。ここで五つのパンと2匹の魚とは、多分一人分の食事だろう。誰かがそれを差し出したから奇跡は起こったのである。8章では、7つのパンと2匹の魚を差し出した。多分多くの人が自分の弁当を持ってきたかもしれない。しかし自分の食べ物を犠牲にして差し出した人は1人か2人くらいだった可能性が高い。どんな祝福や奇跡もその祝福の元となれる信仰や献身の種を植えることから始まる。

井戸水をくみ上げるポンプ式の場合、いくら力強く漕いでも水は出ない。最初は少しの水を逆に注入することでやっと祝福の水が出る。奇跡も祝福もこういう信仰と献身の種、迎えの水が必要である。

お腹が空いたのに魚を差し出すのは信仰と犠牲的な献身である。食べ物がないのに、お金がないのに、神様に献金をささげるなんてとか、あるいは私だけが食べても足りないのに分けるなんてとか、忙しく時間もないのに神様のために時間をささげて祈るか奉仕をするなんて、そう思っていないのか。そういう非常に賢く理性的な考え方で生きるならば、あなたに真の神様からの祝福や奇跡は起こらない。どうしても損するだろうし、これを差し出すと後が困るということで躊躇するならば、いつまでいっても信仰と献身の決断ができないならば、あなたの信仰は成長しないだろう。ただこういう理性と計算で生きる限り、神様の奇跡と祝福は起こりにくいだろう。犠牲にして信仰の決断してみてください。いつまで計算でいきるのか、いつまで決断を保留するのか。

今、自分より神様を信頼し、損となるかもしれないと思うことさえ、差し出す信仰の決断、献身の決断をぜひしてみることを勧める。

3.イエス様の叱責(悟らないのか)
神様は大きいことだけではなく、私個人に一番ふさわしいことまで何でも必要に応じることができる。6章では2つの問題が登場する。一つは5千人への食べ物での問題、もう一つ続いて出てくるのは、船での恐怖に対する解決つまり波を沈ませること、8章では最初は4千人への食べ物の問題、次は移動中の船での自分たちの食べ物の問題が出てくる。

神様はどんな問題も解決できる方である。種類が違っても場所は違っても、問題にならない。というのは、それらのすべての問題の解決の元である神様は、同じでありその力は限りがない。

しかし、弟子たちは、つい先、すごい奇跡を経験したのに、その後すぐ出てくる問題や危険、困った問題に信仰によって対処できず、心配し悩む。これが人間、私の生き方なのか。つい先、あり得ない、想像できない奇跡があったにも関わらず、それとは比べられない小さい問題につまずいてしまった。そこで、イエス様は、6:52で悟らないのか、8:18,21で見えないのか、聞こえないのか、覚えていないのか、悟らないのか、と厳しく𠮟る。これがよくあるイエス様の弟子たちへの叱責である。あんなにすごい奇跡が効果がわずか何時間も続かなかったのである。これが私たちの生き方であるのか。これが奇跡の限界でもある。見ても聞いても、悟らない限り意味がない。悟るとは、一つの出来事を通して次の別の問題にもそれを応用できる力のことである。多くの人は、起きた奇跡だけにあまり興奮して他の問題や必要に応用ができないのである。子供におもちゃを買ってあげると、お父さんいらないということに似ている。起きた奇跡だけを瞬間的に楽しみ、それをくださった神様を捨てるような話である。これも奇跡の問題、限界でもある。

他の人たちに起きた奇跡、過去自分に起きた小さい奇跡や祝福、そういうことの中心にある方は、全知全能の同じ神様である。その方は、誰かに関係なく、種類に関係なく、場所に関係なく、いくらでも私にも奇跡や祝福を起こさせてくださる方である。聖書に出てくるすべての出来事が私にもいくらでも起こりうると信じていけばよいのである。それが悟るとう意味である。同じ神様、一人の神様だからでである。今、あなたはどういう問題に直面していますか。食べ物、お金、恐れ、病、どんなことであれ、神様はあなたに答えることができる方である。

実践:
@あなたは奇跡や祝福の種となるような、イエス様に差し出せる小さい信仰の決断や犠牲や献身のようなものは何ですか。

お祈り
私たちに豊かに祝福を与えてくださる神様、あなたの恵みを感謝します。私たちは聖書からも他人の証しからも悟り、自分の成長や祝福につなげるべきですが、そういう悟る力、応用力がないことを悔い改めます。また、祝福や奇跡の種となる何かを差し出せる小さい信仰への決断、小さい献身、犠牲の勇気がない自分をお赦し下さい。きょう、ここで決断したいと思います。差し出せる勇気を与えてください。その迎えの水に主は何百倍もの祝福を与えてくださることを信じていけますように。イエス様のみ名によってお祈ります。アーメン

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