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zoom RSS 「キリストの十字架から学ぶ信仰者の人生学」(イザヤ53:1-12)

<<   作成日時 : 2018/03/18 18:08   >>

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イエス様は、2節で外側の外見においてまったく見栄えも輝きもなかったと書かれている。また3節に内面の精神的な面でも悲しみと蔑みでいっぱいであったとなっている。しかし、4節からの霊性においてはすごい面を見せてくださる。十字架での姿は実に素晴らしい。普通の人間は外側を注視し、内面の精神面は弱く、霊性は機能しないのか、しても弱いことが多い。イエス様とは真反対である。しかし、人間は深い霊において神様とつながるようになるので霊性こそ人間の根元であり、すべての力と祝福の源である。この霊が弱いと、だめである。人間の幸福は、外側の質ばかりを高めては無理であり、必ず内面の価値を高める必要がある。ここに霊の大切さがある。それでは、今からイエス様の十字架における霊性について考えてみましょう。

イエス様の十字架から学ぶ

1. 2節(外側)
2彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

※イエス様の外見は本当によくなかったとなっている。格好良さもなかった。

2.3節(内面の心)
3彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

※精神的な面でもイエス様は悲しみばかり、さげすまれるばかりでつらかったと思われる。決して私たちが考える幸せで考えれば幸せではなかった可能性が高い。

3.4−12節(霊的な面):十字架を背負って死ぬ

1)”わたしたちの(   )”: わたしたちの身代わりとなったイエス様の死(罪深い人間に対する愛)

@頑固な人間(救いに値しない人間)

6私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

※人間、私たちはみんな自分勝手な道に向かっていった。全く神様のこと気にしていなかった。自分の思い、欲にしたがって勝手に生きるのが普通の人間である。


Aキリストの”身代わりの死”:これは私たちの罪の赦しのための代価であり、救いへの補償である。

4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。



※私の罪を背負って十字架で身代わりにイエス様が死ぬ:罪の赦しへの代価払い、救いへの補償

※身代わりによって立場が逆転した:義人であるキリストは死に、罪びとである私は生きた。義人であるキリストは呪われ、罪びとである私は癒された。義人であるキリストは死の対価を払い、その補償によって私たちはただで救われた。

 2)十字架で死を受け入れ従うキリスト(神に対し): 神がキリストを十字架で死なせるのは、道徳的な統治(正義)の基盤である。罪はあるのに何の代価も払わず許されるようなことは決して道徳的に正しくない。つまり、正義ではない。罪あるところに罰あるのが聖書の動かぬ真理。この正義を守る道徳性を担保するのが、人間の罪の赦しのためのキリストの代価払いであり、十字架で死ぬことである。

@十字架の死への素直な従順

7彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

9彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。



※神の御心を受け入れる:口を開かない、つまり沈黙することは受け入れること。普通は沈黙ではなく復讐で怒りをぶつけるが、キリストは復讐しないで受け入れた。信仰なしにこれはできない。そうでないと、ストレスで病気になる。口だけで信仰は欺きである。神の御心を受け入れる。

※また沈黙だけではなく暴虐もしない、欺きもないということは従うことの証拠。つまり神の御心の苦しみに暴れることもしなかった。また欺くというか、弁明、言い訳も全くしなかった。

※私たちだったら、こういう不当なことになると、まず大声で口を開き、怒り心頭、暴虐やあばれをし、弁明や言い訳で時間を費やすだろう。イエス様はそういうことを一切せず、静かに十字架を受け入れた。

A従順の結末
10しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

※十字架の従順の結果、末永い、つまり永遠に、満足すると書かれている。神様に従順して生きるのはその結果は永遠である。あなたがこれから従順するかしないかは、永遠に残るようになる。

この十字架によって、私たちの罪だけが解決でき赦されたのではなく
1)あなたの肉身、心、霊的なすべての呪いや刑罰から解放され、いやされた。
2)キリストの十字架の死とその血は、あなたの救いと赦し、祝福への十分な代価であり、保証である。
3)キリストの痛みほど、侮辱がひどいほど、あなたの救いや恵みは輝く。


実践
@あなたはイエス様のどういうところに感銘を受けましたか。

Aその面において私が一つ実践したいことがあるならば

祈り
天の父なる神様、きょうはイエス様の十字架のことから、信仰者である私たちがどのような生き方を目指すべきかを教えていただきました。私たちの人生もあなたに見習って少しでもあなたの姿を生活の中に反映するすることができますように。少しでもあなたの姿に似ていくことができますようにお願いします。今指摘してくださったこと面が祝福に変えられますように。イエス様のみ名によっていのります。アーメン

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