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zoom RSS キリストの十字架上での7つのことば(マタイ27:42.46)

<<   作成日時 : 2018/03/11 12:55   >>

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この7言は、イエス様が十字架の上で話されたことである。そこでは足と手が、体が釘で固定され、思い体が垂れていて少しも動くことができない時である。しかしイエス様はその瞬間にもしっかり仕事をされた。ならば、クリスチャンである私たちもいつまでも現役で働けるのである。何もできないその時も、ここまでできるので皆さんも死ぬその時まで働ける。定年したからすることがなくふらふらする理由がない。最近の日本において定年すると、本当に男はかわいそうな感じで家に閉じこもり、人間関係がなく厳しい人生を送る人が多い。男は仕事の時は機能するけど、仕事がなくなると、またその上奥さんもがなくなると本当に、何の機能もできない人になってしまう。だから若い時から教会でこのように交わり、共同体で生きていることは素晴らしい。年取った男が教会にくるのは、本当に難しい。人の輪の中に入れない。

このイエス様の十字架上でのお話、仕事は今までのご自分の働きの集大成である。これらのことは今までイエス様がしてきたことの続きであり、私たちが人生において何を目指して生きるべきか、どのように死を迎えるべきか、死ぬときにどういう告白で終わるべきかに対する教訓ともいえるでしょう。以下のことは、十字架上でイエス様が大体時間順でなさったことである。2つは神様に向かって、2つは自分自身に向かって、2つは人に向かって、一つは家族に向かってのことである。


1.人に向かって
@父よ。彼らをお赦しください :ルカ23:34

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

死ぬ前に赦すこと、そのまま持っていくとそれは恥であり、怒られるかもしれない。よい人に向かってではなく罪人、いや今自分をいじめ殺そうとしている人に向かっての話である。私たちは人の前では赦しますと言えるが、しかし心からは許せないので何とか助けてくださいというのが普通である。しかしイエス様は神様に向かって赦すことを宣言している。私たちは、死ぬまでに許さないまま、神に逝ってしまうのはしまうのは恥である。また神様から与えられた賜物を使わず、才能や財産などをそのまま残し埋めたまま帰ることも恥ずかしいことである。

Aあなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます:ルカ23:43(人に向かって)
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

私と共にパラダイスにいられるように、一人でも伝道しよう。イエス様は十字架で死んでいく最中にも伝道した。どんな時にも伝道するように言われている。パウロも、エルサレムに戻れば死ぬというのが決まっているにも関わらずあえてそのエルサレムに向かっていき、つかまって結局ローマに行き、人々に神の福音を伝えその後殉教した。皆さん、いつも伝道に心を用いるべきである。こういう時は伝道しなくていいよという時はない。私が覚えているなかで一番幸いな人はきょう出てくる、イエス様によって十字架上で救われた強盗である。この強盗は、本当はわずか何時間後には厳しい裁きを受け、地獄に行くしかなかったひどい罪人であった。その彼が、死ぬ寸前十字架上で救われた。行いをもって救われるというならば、絶対彼は救われるはずがなかった。しかし彼はイエス様の福音を聞いて、自分のひどい罪を悔い改め、そしてイエス様に救いをお願いし、やがて救われた。よい行いをするから救われるのではない。イエス様がこの厳しい十字架で人間の罪を背負い死なれ、私たちの罪を償うことで、私たちは救われるようになった。

2.家族(母親)に向かって
B女の方。そこに、あなたの息子がいます:ヨハネ19:26

イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。

親孝行、それは肉体的な部分と霊的な部分で必要がある。一つはまず、福音を通して救われるようにすることこそすべての親孝行の中で最高のことである。その上、肉体的な部分でもできればよい。もちろん、元気な時にはそこまでではないかもしれないが、年を取ったらしっかりサポートするのが必要である。これは10戒の第5番目の命令である。


3.自分に向かって
Cエリ、エリ、レマ、サバクタニ:マタイ27:46

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

自自分が捨てられたことを誇りとする。捨てられて代わりに救われる人がいるからである。マタイ27:42にもあるように、十字架から降りてくるならば、イエス様自分は救われるが、人間は救われることができない。

「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。

犠牲なく伝道も救いもない。信仰者として成長も難しい。だから先に福音を知った人はそうでない人のために犠牲していくことが求められる。他人を救うために自分を救えなかったのが十字架であり、そおかげであなたは救われた。


Dわたしは渇く:ヨハネ19:28
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

自分の肉体的な苦しみをいう。十字架の苦しみを生々しく伝える場面である。最悪、究極の苦しみと苦痛を通して私たちが救われるようになった。これは次のイザヤ書の成就である。

4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:4-5)


4.神様に向かって
E完了した:ヨハネ19:30

イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

これは最高の素晴らしい告白である。全部のことをするのではなく自分にまかされたことをすることである。あなたに神様がしてほしいと願うことをするばよい。みんなにそれが与えられている。ヨハネ17:4、神様が命じたのを行い神に栄光をあがめたとなっている。皆さんに任したことを知り、それを行うことであなたも”完了した”と告白できる。あれこれなんでも手を出しては何もできない。

F父よ。わが霊を御手にゆだねます:ルカ23:46
イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

死の瞬間にこのように言える人は幸いである。そう言える神がいる人は幸いである。今ままではあなたのわざのために頑張りましたが、今からは私の霊を任せます、導いてくださいと言える人は幸せである。でも多くの人は、ゆだねるところがなく、ただおびえ、怖がって死を迎えるのである。一生を自分勝手に生きて、神から離れてはこういう話が出ない。もちろん、死ぬときに誰もが後悔する点はあるが、しかし一つ神に向かって信仰において自分にまかされたことに最善を尽くし、完了したと言えるならば最高である。罪があるかないかではない。


実践
@あなたが一番心に刺さったのは何番ですか。

Aそのために何ができると思いますか。

祈り
天の父なる神様、きょうはイエス様の十字架上の7言ということで学びました。私たちが最後の瞬間のために、普段何を目指すべきかを教えてくださりありがとうございました。神様に対し、人に対し、また家族に対し、さらに自分自身に対し使命と責任ある生き方をすることができますように祈ります。そのために自分が目指し、直すべきことをしっかり行っていけますようにお願いします。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン

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