宝探し(私たちが発見すべき3つのこと)(マタイ13:44-51)

<関連聖句:マタイ13:44-51>
44天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
45また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
46すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
47また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
48網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
49この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
50火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
51あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。


1.初めに
人生は宝探しだと思い、人間は様々なことをします。パチンコで宝を見つけようと全ての時間をそこに費やす人、宝くじに当たるために必ずそのくじを買い続ける人などなど。

ここで質問です。あなたが見つけたい3つのことは何ですか。少し考えてみてください。

一般に人間が探そうとすることはどういうことなのか、探してみましょう。
・学校探し ・配偶者探し ・職業探し ・友達探し 

しかし、これだけで果たして満足できるでしょうか。これらを見つけたから大丈夫ではないのです。もう一つ見つけるべきことがあります。それはこの世での発見ではなく、神様における発見です。では、なぜ私たちはそれを発見すべきでしょうか。その理由がこの箇所に出ています(マタイ13:47-48)。人生という流れの川の最後には、網が置かれていると話しています。そして全員そこにかかってしまうと話しています。一人も逃れることができない、死後のさばきの網です。その流れの最後の終着点に到達する前に脱出をしないといけないので、私たちは生きている今、この逃れの道を探す必要があります。これは、ある意味、死後のさばき、天国地獄の話になるかも知れません。私は最近風邪、のど、気管支などの腫れで家にいる時間が多かったですが、以下のことばが私に与えられ、どんな状況でも感謝し、喜んで受け入れることの重要性を教えてくれました。

・地獄の怖さを考えれば人はどんな苦しみも我慢し感謝できる。天国の素晴らしさを知れば人はどんなよいと思われることでも諦めることができる。

・今を天国のように自由、自分勝手に生きれば、その自由は終わり不自由の滅びになる。

それでは、この世の発見以外に、神における見つけるべき3つの発見とはどういうことなのか、考えてみましょう。

2.本論
1)自分が罪人であることの発見

これはそう簡単ではありません。罪人でありながら、その罪を知らないなんて困ったもんです。これはなぜそこまで難しいでしょう。いろいろと理由があるでしょうが、私は変な話かもしれないですが、人間は罪人だから罪の自覚も、見つけることも、認めることもできないのではないかと思います。逆説かもしれませんが、罪人だから罪がわからないのです。人間は罪によって汚れ曇っているので、正しく知ることができないのです。嘘、高慢、自己欺きといった罪の弊害のためでしょう。以下に、罪に対する人物の話を見てみましょう。

まず、キリストの12弟子のひとり、ペテロの告白を見ましょう。彼は、イエス様と知り合いでありながら、なかなかその話に耳を傾けず、従がわず、自分の漁師としての生き方を固執した人です。しかし、そういう彼も困った出来事がありました。自慢の漁師にとっての、魚が全く取れない恥です。しかし、イエス様が言われたまま従った時に、すごい漁ができました。それなのに、彼は感謝ではなく、また”よろしくお願いします”、ではなく、自分が罪人ですと告白しました。漁をたくさんした喜びはなくなってしまいました。彼はそれよりもっと凄い事実を発見したからです。

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。(ルカ5:8)

また、イエス様を迫害し、クリスチャンを迫害し、殺していたパウロの告白です。彼は今のヨーロッパに福音を伝えたすごい仕事をした人ですが、彼は自分を罪人のかしらだと話しています。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(Ⅰテモテ1:15)

最後にイスラエルの有名な王、ダビデの告白です。彼は、自分は罪をもって生まれた、どうしようもない罪人であり(5節)、また生きる間にもたくさんの罪を犯したと告白しています(4節)。

詩篇51:3まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。4私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。5ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

2)キリストがその罪人の救い主であることの発見
自分が罪人であることを認める人は、意外といるかもしれませんが、しかし今度はその罪の問題を解決してくれる解決策を知らないといけません。聖書は私たちを罪人だと定め、いじめるのではなくその罪の解決策も与えてくれました。罪を自覚するのは素晴らしいが、それだけで終わると意味がありません。今度はその罪の解決策までを見つける必要があります。これはセットで行かなければならないのです。

●James Simpson, 1811-1871:シンプソン博士の証し
彼はノーベル賞を受けたイギリスの産婦人科の医師ですが、敬虔なクリスチャンであり、聖書の創世記を読む時に、2章で神様がアダムを眠らせて彼のあばら骨でエバを造ったというところから、ヒントを得ました。人が痛くないように眠らせる方法があるならば、私がそれを見つけると決心し、やがて麻酔薬を発見したのです。そして王室の出産を見事に成功させたのです。のちに、ある人が彼に聞きました。”あなたの人生において一番すごい発見は何ですか”、ということです。その時に彼はこう答えました。”私の最高の発見は麻酔薬ではありません。私にとっては、自分が罪人であり、その解決をキリストがしてくださったことを発見したことです。”

以下はイエス様が弟子たちを連れて移動中に彼らにご自分を誰だと思うのかと質問しました。その時に、ペテロが見事に答えました(16節)。これこそ、私たちの発見であるべきで、告白すべき内容です。

マタイ16:13さて、ピリポ_カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
14彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
15イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」


畑とはせいぜい頑張っても少しよい実を結ぶ程度です。豊作もあり、少し設けることもあるでしょう。ある人はすごいお金になりそうな作物を作ってお金を設けたりします。しかし、残念なことに、きょうのマタイ13章に出る主人公は、そういう畑さえもない本当に貧乏な人です。この畑でいくら頑張ったって彼にはあまり益にならないのです。しかし、畑の手伝いをする中にダイヤモンドが埋まっているということを知ったのです。それで彼は急に静かになり、ひそかにその宝を手に入れる方法を考え、実行するのです。みなさんの借家の下にもし、ダイヤモンドがあることを知ったならば、あなたはどうしますか。急に静かになり、誰も知らないようにこっそりその家を買うように働きます。借りまくって家を買います。そして立て直すという名目で家を壊し、その中で偶然ダイヤモンドが見つかったように装うでしょう。宝を見つけた人は、静かにいられないのです。イエス様の宝を見つけた人も同じです。絶対に静かにはいられません。もし静かにいられるならば、異常です。

なんでもない平凡なこの畑も、宝のゆえにその価値があがります。私たちも同じです。私たちは価値のない畑かもしれませんが、信仰によってそのダイヤモンドを買うことができます。金脈やダイヤモンドを見つけるのは、昔は難しかったですが、今は探知機を用います。聖書はこの宝を見つけだす探知機です。聖書を読めば、何が宝で何が大事かを知ることができます。

3)生き方の変化(奉仕と使命):心の変化・生き方の変化
このようにして宝を発見したならば、それを自分のものにするために行動すべきでしょう。お金を借り、また埋まっている宝を採掘するでしょう。つまり、宝に関連する仕事に専念するようになるはずです。宝があるのに、まったく動かない人いるのか? 生ぬるく行動するのか? もしそうするならば、その人は異常ではないでしょうか。クリスチャンでも同じことが言えるのではないですか。異常なクリスチャン、あんな宝を探したのに、そのために全く動かない、働かないならば、とてもとても可笑しい人です。いや正常ではないかもしれないですね。

ピリピ3:7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また

上記の言葉にあるように、パウロには圧倒的な価値比較が起こりました。彼はキリストにあって得た宝と今までの世のこととの間のギャップはあまりにも大きすぎたのです。もちろん、私たちはこの世で職業をもって社会に貢献するし、それで生きていくので大事です。しかし、霊的な宝を見つけた私たちはそれだけでは終わらないのです。今度は世のこととは別に、神のために生きる道、つまり使命や召命、奉仕に心が行くようになります。

私たちには2つのことが必要です。世の仕事、神の召命や使命のための働きです。

お金をもらって働くならば職業、お金と関係なく働くならそれは召命です。しかしながら、クリスチャンでありながらも、お金なしには動かない人、お金の匂いについて行くならば、それはよくないです。若い時、仕事が多いというのは仕方ないが、それに押されてしまうと、年を取ってからは信仰があやふやになりがちです。世の仕事は量的に多くの時間や努力を必要とします。しかし、神の仕事には質を求め、一番重要なことを忘れないようにしてそれを持続的に行うことが大事です。

3.私としての適用
1)私が発見したことはどこまでですか。

  ①私が罪人・②その罪からの救い主はイエス様・③私がすべきこと

2)各自、心で決心する祈りをしましょう。
①②に引っかかっている方

わたしの目を開き、自分の罪深さを見ることができるようにしてください。それだけではなくその罪の解決がイエス・キリストにあることを知ることもできますように。どうか、こんな私の罪をもキリストの十字架によって解決済みであることを知り、そのキリストを救い主として心に受け入れることができますように。今この場で心を開きます。イエス様、私の中に入り、私の救い主となってください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン

③にかかっている方
イエス様、わたしを救い、ここまで導いてくださったことを感謝します。新しく生まれた者として、どのように生きるべきかという面についてもっと充実になりますように。この世に押されて生きるのではなく、大事なこと、この時期にすべき、神様のことを忘れないようにしてください。またそれを量より質的に、しかも優先的にしていけるように心を改めます。後回しの生活にならないようにわたしを導きください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック