死に教えられ、復活から答えてもらう(ヨハネ11:25-26)

ヨハネ1125イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。26また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」


イースターは、どういうことでしょうか。皆さんはご存知でしょうか。

イエス様の復活を祝うことですか。しかし、そのイエス様のことを祝うことに過ぎないのでしょうか。イエス様の復活は祝って、自分たちには何の関係もないのでしょうか。

イエス・キリストは生きている間に、何回も自分が復活することを話していました。そしてその予言の通りにキリストは復活されたのです。

Ⅰコリント15:3-4
3私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、


イエス様は、人間の罪を背負って十字架で人間の罪を償うために死なれました。それによって人間の罪が赦され、救われる道ができました。そしてそれだけで終わることなく今度はその死から復活し、真の神として認められたのです。復活はイエス様が人間ではなく神であるという証拠なのです。人間は死んだらみんな墓から出てこれないからです。

キリストが十字架で死んで終わってしまったならば、それはとてもとても物足りなかったことでしょう。凄い悔いの残ろ、釈然としないことです。そしてキリスト教は、普通の宗教とあまり変わらないでしょう。

人間を完全に無力な存在と証明する事件が、死という出来事です。その話は、死という出来事はある意味、すごい力あるものだとも言えます。

死の前では、すべてが意味を失うからです。死の前では、美しさ、快楽も、きれいな彼女も、彼氏も、健康、お金、名誉、若さ、頭の良さ、いい車、夫、妻、子供、親、ルイビトンのカバン、高い名誉などの全てが意味なくなるからです。

ヘブル2:14-15
14そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
15一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

若いから死とは関係ないと考えがちでしょう。むしろ、若いから死を迎えるようになると、本当にかわいそうでそれこそ本当にどうしようもなくなるでしょう。死への準備ができていないのでもっと怖いのです。死ぬ準備も、環境もできていないのに、そうなったときに本当に、本当に苦しいのです。そして、たくさんの未完成の問題を残したまま、世を去るので逆に大変です。

ですから、きょうのタイトルにもあるように、人間は死という最終的なゴールを考えて今を生きることが大事です。死は多くのことを人間に教えてくれるからです。死は向き合いたくないということだけでは、私たちは生きる準備ができていないということでしょう。死はあなたにとって最高の先生です。なので死を考えないということは、あなた方は人生の答えを探す準備ができていないことでしょう。

英国の懐疑論者トーマス·ホップス(Thomas Hobbes)は彼の一生を終える瞬間に,このように話しました。 "あ,一日だけでももっと生きたい。私は自分の前に近づいてくるあの世界が怖い。 あの世界を少しでも覗ける穴でもあればいいな。

パスカルは、”私は死ぬことはわかるが、死そのものについては何一つ知らない。死の後に永遠の生があると信じるほうが良い。そしてそのために努力すべき。しかしほとんどの人は反対に働く。”

ドストエフスキーは、”私は自分が死ぬことは確実にわかるが、その死の内容は全く分からない。”

今死にたいという人もかわいそうであるが、死の怖さを全く分からない人もかわいそうです。

死が一番怖いというのは、自分一人だけがいけなければならないからである。誰も応援も友たちにもなってくれることができない、また一回も行ったことのない道であるからでしょう。従がって、死の前で大胆になれる人こそ、一番強い人です。多くの人は、クリスチャンは弱い人がすることだと思いますが、しかし、それは反対です。クリスチャンほど、死に対しても大胆な人はいないのではないでしょうか。一番弱い人は、実は死に向き合いたくないという人でしょう。私たちは怖くなったら、考えさえしたくないからです。

どころが、この死の問題にどうすれば、人間は勝つことができるでしょうか。薬を飲んで楽に死ねばそれで死の問題が解決できますか。ならば、何の心配もないのです。問題は死の瞬間だけではなく、死後の問題がもっと長く永遠であるから、死ぬだけでは解決できないということでしょう。だから、死の問題への真の解決ができた人は、最高に幸せな人です。最近「終活」という単語がブームとなっています。死ぬだけのための活動は、私は真の「終活」ではないのです。死後の問題、この復活の信仰を通して死の問題を無力化し解決できることこそ、真の終活ではないでしょうか。

たしかに、死をもって人間は今の人生をリセットします。その死の力は本当に大きくそれに勝つことはありません。しかし、聖書では、死より強い物、死への解答が書かれています。それがきょうの復活の事件です。イエス様が復活したのは、イエス様だけが復活するということではありません。そのイエス様を信じる人間もいつか同じく死から復活し永遠のいのちをもって天国に入れていただけるから、だから私たちも喜ぶのです。イエス様を祝うだけではなく、自分たちの復活も前もって喜ぶ、祝うことなのです。

そういう意味では、死は私たちに大事なことを教えてくれる先生です。死はすべてを無力化するものです。しかし、復活はその凄い死をさらに無力化することなのです。つまり、死は終わりではない、死は復活のための変形に過ぎないということです。死への完全な答えは、アンサーは死を殺せること、死を無力すること、それが復活です。

ある30代の女性の証しです。彼女が33歳の時です。今から15年前の出来事のようです。30代後半の夫ががんにかかっての話でした。入院した彼は、毎日怖くて怖くて泣いていました。またひどい夢、または現実か分からないが、誰かが自分を迎えに来るからそれについて行かないために、汗をかいたり、怖がっていました。息を引き取ることもできず、苦しんで妻と一緒に行きたいと話していました。自分一人は怖くてついていけないということでした。それで奥さんが、クリスチャンの話を聞いていろんなクリスチャンを強制的に病室に連れてきては祈ってもらい、また聖書を教えてもらって、夫婦2人信仰者となり、そしてやがて夫もにこっと笑って毎日を平安で過ごし亡くなったと話しました。彼らはこの復活を知ってから死に対し怖くならなかった。そこで初めて平安をもらうようになったとしています。死への完全な答えは、復活です。それはキリストからくる最高のプレゼントです。

十字架でのキリストが死ぬことだけでは、キリスト教は他の宗教より少しよいくらいの宗教です。でもそこまでキリスト教を信じなければならないほどの宗教とは言えません。十字架での死だけでしたらキリスト教は10%程度の価値もないでしょう。でもその後の復活があったらか、その宗教は完全なものとなるのです。死によって完全に壊された人生、無力化された人生が、復活を通して完全になるからです。あなたの人生にも、死ぬだけを考えて生きるならば、あなたはいまだに死ぬ準備ができていません、そのまま死んでは困ります。答えもないまま信では悔いだけが残るからです。ぜひあなたの死を復活をもって無力化して死への答えをもらって生きてください。

Ⅰコリント15
52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
54しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
55「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

しかし、その十字架の死に復活があったので、キリスト教は偉大であり、最高の人生のアンサーである。人間の一番無力な死、死だけではなく死後の問題に対する答えを出さない宗教は、人間が作った宗教であり、それだけではこまます。宗教が人間ができるような働きをするだけでは、よくないのです。人間はどうしようもない、死の問題に正解を与えてくれたのが、キリストでありその神です。ぜひ、皆さんもこの聖書、または教会に足を運んでみてくださいませんか。あるいは、聖書学びに参加してみませんか。

きょう、皆さんのご参加心から感謝します。またよかったら、教会の礼拝、聖書学びにもぜひ参加されることを祈ります。アーメン







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