安息日の新約的意味(出エジプト記20:8-11)

●安息日の意味:世の仕事を中止・休む・神様を敬う
この世の仕事を中止し、神様との交わりに専念する。それによってその神の愛や恵み、力を受け、そして世に出て人々を愛し、働きをすることができる。

・人間も6日働いて最低一日休むことが理想的であるといわれている。ロバの場合、一週間に一日休むと荷物を乗せて毎日30`マイルを走るが、それをしていないロバは一日15マイルしなか歩けなかった。また早く病気で死んでしまう。人間も同じである。仕事の中毒の恐ろしさや問題点である。神様が作った体のサイクルであり、それは守ることが自分のためにもよい。ただ休むだけではなく、神様との交わり、礼拝などを通して神様の力、恵みを受けること、そしてそれをもって新しい気持ちで働くことができる。むかし、ソ連では労働力が必要で8日に一回休むようにしたり、10日ぶりに一回休むようにしてみたけれども、やはり生産性が落ちたのである。結局六日働いて一日休む聖書の概念に戻ったのである。

・大体の道徳的な堕落は、安息日の乱用からもたされる。ヘンリービチャ

十戒の4番目の「安息日を守る」ということの意味:1-3の戒律(神様を愛する、つまり神様に対する態度)と、5-10の戒律(他人や隣人に対する愛;社会人としての態度)の中間にあり、両方をつなぐ大事な戒律である。つまり、この4番目の律法は、前の神様との関係を通して、後ろの人との関係、この世の働きを全うできるようにする役割をもっている。

実際、当時のユダヤ人には人間が作った安息日に対する規則が39個もあった。しかし、その中に神様やキリストはなかった。こんな多い規則に縛られると、中身の神様を考える余裕がない。それで、バリサイ人はイエス様から厳しく責められた。安息日には、長く歩くこともできない。エレベーターのボタンさえも押せなく自動で動くようにするほどである。39もあると、皆さんそれを守ることで精いっぱいになる。

●律法主義(安息日)とキリストの対立
イエス様と当時の律法主義者たちとの総突:マタイ12:1-2(イエス様の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べた), 12:10-12(イエス様が安息日に病を癒す)ことで、キリストを非難したりしていた。彼らは、その中身を見ることをしない。形だけで、満足する。それが、信仰だと思った。
だから、彼らは信仰も、神も、哀れみも見る余裕がない。形を守るそれだけで生きていた。律法主義は怖い。しかし、イエス様は律法の本有野精神に戻るべきと諭した。安息日によいことをすることは大事なことだということである。

●新約の安息日:旧約とは違って新約ではある日を大事にし、礼拝するかは問題ではない。初代教会では、キリストが復活した日曜日に礼拝するようになった。旧約の安息日は土曜日であるが、新約では日曜日に集まるようになった。以下の聖句を見よう。

コロサイ2:16こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。17これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。

ローマ14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。


いつ礼拝をするかの問題ではない。日にちは形にすぎないからだ。大事なのはその中身の精神である。安息日だけが大事でもなくすべての日が同じく大事である。ただ、毎日集まって礼拝はできないので、日曜日にするだけである。できれば、本当は毎日個人的に神様との関係をしっかり保つことが求められる。

●十戒などの律法をどう考えるべきか
旧約の内容、または律法や十戒などはどうとらえるべきか。まずは、旧約や律法の形を固執する必要がない。もちろん、律法の内容や十戒も悪いわけではないので、それを大事にすれば、それも益となる。だが、それを守ることで、何かを得る、救いを得る、満足を得るというのが問題である。というのは、それを守って救われることはできないからである。

旧約の律法は影であると書かれている(上記のコロサイ2:17)。影は本物ではなく、本物の存在を少しでもわかるようにとイメージさせることにすぎない。だから、影を握ることや握ったとしても意味がない。影を握ること自体がおかしい。大事なことは、影ではなく本物を掴むことである。安息や律法の中心(本物)はイエス・キリストである。したがって、律法の形をそのままとるのではなく、その精神を活かすことが大事である。つまり、本物のキリストをしっかりつかめばよいのである。以下に安息の主人は、キリストであると書かれている。中身が抜けた律法だけがいかに意味がないかを下の聖句は教えている。

マルコ2:28 人の子は安息日にも主です。

本物のキリストが生かされることが大事である。それがなくなると、おかしくなる。律法のための律法となる。つまり律法主義となる。安息と律法の問題は主人が消えたことに大きな問題がある。

●例話
(私たちも律法主義者以上にしっかり礼拝や安息に対する態度をとるべきである。ただ、その中身である神様やイエス様のためにするかどうかが問題:神様に礼拝する時間や日を大事にする)

・アメリカの12代大統領、ザカリー・テイラー、1849.3.4日曜日 就任式拒否、常飲議長エチソンが臨時大統領に選出されるほどであった。20代ジェームズ・ガーフィールド大統領は、初めの日曜日の国家非常会議を拒否した。

・カーター大統領は、現職の時も今も毎週日曜日は母教会にて日曜学校の先生をし、礼拝をささげているといわれている。

・スコットランド人でのちに中国の宣教師となったエリク・リデルは1924年パリオリンピックで自分の100mの競技が日曜日になったことを受け、彼はその競技への出場を拒否し、代わりに教会に行き礼拝をした、しかし、その後急に自分の種目ではない200m、400mに出場するようになり、400mでは金メダルを取った。その後、彼は中国の宣教師となった。(映画、炎のランナー)

・清教徒、船上で礼拝、到着して初めてしたのが、教会を建てることだった。

●私への実践
日曜礼拝、または神との交わりに対して私が見直すべき考えや態度はどういうことだと思います

●適用
天地の創造主なる神様、私たちが安息日の意味を正しく知り、主にある安息を通して豊かな恵みと力をいただけますように。またそれを持ってこの世で神様の子供として生きることができますように。どうか、主と共にする安息と交わりを通して人生がもっと豊かになりますように。そのために、私たちは主にある安息や交わりを何よりも大事にすることができますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン

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