古き人を脱ぎ捨て新しき人を着る(エペソ4:22-24)

●この説教の動画は以下からご覧いただけます。https://youtu.be/XQJVN6dERLY

<先週の復習>ダニエル書:①歴史という歴史、それは個人であれ国であれ神様が導く ②この世には信仰をもって生きていこうとすると、何らかの迫害や試練を伴う ③その中でもダニエルとその友たちのように妥協せずに行けば必ず勝利できる。

エントロピー法則とは
物理で使う用語であり、その意味は、「自然では無秩序度が増す方向に流れる」を意味する。つまり、世のすべては時間が経つと、自然と無秩序の状態へ動いていくという意味だる。家も一回掃除をしておくと、その時はきれいだけれども時間が経つと、だんだん無秩序の状態に行く。その無秩序の状態を秩序の状態へ戻すためには、力やエネルギーが必要であるという法則である。だからみんな、めちゃくちゃになるのは簡単だけど、掃除をするのは嫌だとする。家の片付けもしないとどんどん散らがってしまうという意味である。皆さんの部屋や生活を見ると、この法則の意味が分かる。

この理論から見ると、進化論は受け入れられない。進化論は、この理論と反対だからである。人間や宇宙の進化には、絶えず秩序に向かって進んできたということである。でも、エントロピーの法則によると、ある存在は現象は、全部放置すると、自然に無秩序の状態になるはずなのに、逆に秩序に向かって進化したいうことなので、それはおかしい。もし、無秩序うから秩序を取り戻すためには、外部からエネルギーや力を加え中ればならないということである。つまり、神様がそういう役割をしたというのが、創造論で聖書のお話である。

このエントロピー法則を霊的に例えると、人間はそのまま放置すると、自然と無秩序の状態、つまり堕落、崩壊、放蕩へ向かう。しかし、この状態を逆にするためには、外部からの何らかのエネルギーや力が必要だということである。つまり人間は全部この法則のもとにあるので、人間は外部の力なしには、救いはもらえず、反対に永遠の破壊、地獄へいくしかないという意味でもある。人間の中にある罪性や欲は、この法則に加速を加え、どんどん放蕩へ走るようになる。なので、皆さんが何らかの活動や決断、または外部の神様の助けがなければ、人間はどんどん罪や欲にあおられ、信仰から不信仰へ堕落していくようになる。人間だけではこの法則をさかのぼれることができない。少しはできるかもしれないが、全体的に長い時間を考えると、不可能だということである。

ローマ3:10それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。11悟りのある人はいない。神を求める人はいない。12すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

Ⅱペテロ2:22 彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。

ローマ7:19私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。20もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。


こんな私にキリストによる新しい人生が始まる
そこで、この人間の堕落や滅びを防ぐために、この世に現れた方、イエス様である。この方こそエントロピーの法則でどんどん堕落していくしかない状態を食い止めることができるのである。罪のない、死をもない、全知全能の方が、私たちにつながることで、私たち人間は、救いを得、滅びから永遠のいのちへ変わることができる。そこで、この人間の堕落や滅びを防ぐために、この世に現れた方、イエス様である。罪のない、死をもない、全知全能の方が、私たちにつながることで、私たち人間は、救いを得、滅びから永遠のいのちへ変わることができる。

このどうしようもない人間がイエス様に出会うと、変化が始まる。どんな方法を用いても変わらなかった人がある日、キリストを受け入れてから変わり始める。このエントロピー増加の法則に反する力が生まれる。というのは、このイエス様はこのエントロピー法則に支配されない方だからである。私にはなかった新しいいのちが、わたしの中に宿ることになるので、体は同じかもしれないが、魂の内側は新しくなる。本当は、新しいいのちを得るためには、わたしが生まれ変わらなければならないが、それはできないので、代わりにキリスト、聖霊が私の中に入ることで、新しいいのちも得たことになる。そのいのちは、永遠のいのちである。わたしがもともともっていた罪ある、エゴ的な、堕落を好む、エントロピーの法則に支配されるような不完全でしばらくの命とは違う。

新しいいのちを得たので、私たちは新しい人間となったと、きょうの聖句は話す。私の中に生まれたこの新しい人は、私とは全然違う存在である。有限ではなく、無限の永遠のいのち、力も有限ではなく無限の力でである。もちろん、私の中にいるこのいのちも、成長する。この新しいいのちは、愛、希望、力に満ちたいのちである。私の中の新しいいのちが、どんどん成長するようにすることが必要です。

二人のうち、誰が人生の主人となるのか
そこで、新しいいのちが入ってくると、私の中には、二人の主人が共存するようになる。ただ、古い人の主人である私と新しい人のの主人であるキリストがいることになる。二人が喧嘩してはならない。古いわたしが主人となると、その人生は、罪が好きで欲にしたがって生きるようになり、また本来の自分にもどる。しかし、キリストが主人となれば、やはり新しい人として生きるようになる。それは、キリストが主人となるようにすれば、私たちの人生は間違いなくキリストに近い形に変わっていくはずである。キリストが主人となると、恵み、真の愛、いままでの自己中心的な愛、死後の希望、平安、喜びが与えられる。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

木を考えてみよう。幹がイエス様で、枝がわあつぃであれば豊かな身を結ぶという。しかし、反対になれば、これは苦しい人生である。イエス様を受け入れてもその人生は、非常に苦しくなる。こういうクリスチャンになってはならない。

二人の主人ではなく、はっきりとイエス様が主人となる人生を生きることである。

ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。


結びの祈り
天の父なる神様! きょうは古き人の私と新しき人であるイエス様について考えてみました。クリスチャンとしてのあるべき姿は、永遠に変わることも弱まることもないイエス様が、私の人生の主人になり、私はその枝になって生きることが最高の状態です。しかしながら、罪や欲の支配を受け、堕落や永遠の破壊に向かっていく自分が主人となる人生は最低で最悪です。これから私が人生の主人となることを諦めます。そしてイエス様を人生の主人とすることを約束し、自分の主人の権利をお譲りします。そしてその私を祝福し、最高の人生へと導いてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン

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