人生最高の喜びと体験的信仰(ヨハネ15:7-16)

<聖書箇所:ヨハネ15:7-16>
7あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
8あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
10もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
11わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
12わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
13人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
14わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
15わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
16あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

<初めに>
きょうの聖書箇所には、クリスチャンが結べる実について紹介している。実を結ぶとは、実際の信仰生活において神様の恵みを自分の身に体験するという意味である(16節)。神様のすばらしさを体をもって感じるという意味である。私たちは全部実を結ぶべき、いや結べるという、それが神様が私たちを救ってくださった目的であると話す。にもかかわらずそれがわからないというのは、信仰者としてはよくない。私が体験信仰の大切さを皆さんに最近何回か話していた。信仰がなぜ生ぬるいか、なぜ熱くならないのか、それはこういう体験的な信仰がなく、人のことしか聞かないので、それ本当かなと、そんなこと私に起こるわけがないとか、考えてしまう。しかし実を結ぶことは、証しであり自分の人生に神様が残した信仰のしるしである。私たちクリスチャンは、みんなそういうことをいくらでも経験できる存在である。きょうは、こういう体験的信仰について私の証しを中心に考えてみたい。ただ、私がしたということではなく、あくまでも神様が私の中でなさったことなので神様が栄光を受けるべきである。私はもっともっと実を結ぶべきなのに、実は弱さや怠けや不誠実によってそれがもっとできなかったことをここで告白する。ここでは、体験信仰の3つのことを考えてみたい。それは、祈り、みことばを守る(実践)、魂への愛について考えてみる。

●神の恵みと力による実、これは永遠に残る。私たちは最終的にそういう実を結ぶために努力すべきである。
●お金や名誉、欲に従って決めてはならない。使命、召命、神様の御心を追い求めるべきである。


1.祈り:救われたばかりの時、教会設立
祈りは霊の呼吸である。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています(Ⅰペテロ5:8)


祈りには神の力がある。悪魔を追い出すことも祈りの力である。私が最近あるところから聞いた証しであるが、ウガンダのある若い20歳ころのクリスチャン青年のことである。彼は生まれる前の母親の体内から、すでにサタンや悪魔を崇拝するグループの指導者である母親によって悪魔にささげられた人である。その母親は魔術や呪術を行い、また人の魂を破壊したり、悪魔にささげたりしていた。この若い青年も小さいころから悪魔のすごい力が出てきており、数々の悪魔的な活動を行い、人々の魂を破壊したり、人生をだめにしたり、死に追い込んだりしていた、彼の人生は血まみれの人であった。彼は数々の神秘な力を持っていて、時には体から魂が離脱して空中に上り、そこでほかの悪霊と一緒に、ある人やクリスチャンの魂、または教会の上に移動して、そこでその対象を破壊したり、悪魔的な働きをしていた。もちろん、彼がそういう破壊活動をすると、その反対側には天使も何人かいて、彼らと戦いをしたりしていたという。彼が空中で見たことによると、クリスチャンたちの祈りには、違いがあるという。ある人の祈りは、祈りが煙と一緒に上ってきては、本当にたばこの煙にようにすぐ消えてしまうことがあるという。祈りに集中できず、雑念、妄想、不信仰の祈り、またはすぐやめてしまう祈りなどはこの煙のような祈りである。実際、ヨハネ黙示録8:4にも同じ内容があります。

香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。(ヨハネ黙示録8:4)

主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。(詩編34:7)


またある人の祈りは、ほぼ天にまで上るが、最後のところで悪霊たちが蓋をかけることでダメになる残念な祈りがあること、もう一つの祈りは勢いよく天に昇っていき、神様の前に届く祈りである。この時に、悪霊はその祈りが天に昇れないように邪魔をする。しかし、反対では、聖霊はもちろん天使が助けてくれる。ただ、天使が元気に働く場合もあれば、天使が弱くなり、悪魔が強くときもある。それを具体的に言うと、クリスチャンの人が、強い祈りをしたり、信仰をもって生きたり、罪や悪から遠ざかっている場合は天使が強くなり、反対に悪霊は弱くなり働けない。しかし、クリスチャンの人が、不信仰のことをしたり、祈らなかったり、罪や悪を犯したり、神から遠くなると、悪魔が元気になり、反対に天使は弱くなるのでその戦いは失敗に終わる。もちろん、まともに信仰によって生きるならば、私たちは必ず勝利することも決まっている。また、彼は体から離脱して空中で見た時に神様との関係がよい人の上には、ふさがることもなく大きな穴が開いていたという。つまり、神とのやり取りに支障がないということである。この話は、100パーセント正しいとは思わないし、聖書に書かれているわけではない。しかし、全般的にはそういうこともあるのではないかという印象は受ける。あくまでも一人の証しであると思ってください。ただ、十分ありうるような話ではないかと思います。誤解はしないようにしてください。

2.戒めを守る:神様への従順は多くの恵みや祝福をもたらす。
私は大学生時代に、軍隊終わって大学に戻った3年生の秋に学校のクリスチャンサークルにて救われた。3ヶ月くらいの学びや聖書通読をしたのちに、自分でクリスチャンになるという決断をした。そしてすぐ一生懸命に祈り始めた。一つ目の祈りの課題は、正月に里帰りをしたときに、いつも行われる法事のことから守られるように真剣に祈っていた。私の家は、親戚の中の一番の本家であり、その上父親が亡くなっていたので、すべての法事、それも親戚の法事にまで私が主導的にしなければならなかった。親戚の中には、年取った多くの叔父たちがいて、法事に参加する。今までは何の抵抗もなく参加したが、クリスチャンになってからは違う。何とか逃れる道をずっと祈っていた。それから覚悟を決めて里帰りをした。その時に、ちょうど隣の家の若いおばさんが急死をしていて、私は家に着くなり、その家に行き、手伝いをするように言われた。それで一生懸命に手伝いをしてきて、翌日の正月と法事を迎え、私はドキドキしていた。その時に、一人の叔父が私に話した。あなたは昨日亡くなった人のお世話をしたので、法事に参加してはならんということばだった。私はほっとした。びっくりした。これは私の祈りの初めての答えだった。感動、感動だった。そのあとは、自分でその法事に立ち向かう力が生まれた。

もう一つ、私はその時に体験したのがある。それは神様のみことばに従うことであった。クリスチャンになったばかりの私は、気になることがあった。それは、私が大学に復学、戻るときにうそをついて復学したことである。大体、前期に復学できる起源は4月2日であった。しかし、私は軍隊が終わったのは、4月8日であり、わずか何日差で復学ができず、また一年を待たなければならなかった。それで、4月1日に軍隊が終わったという風にうその文書を出して復学をして、そろそろ一年がすぎるときだった。でも、私はこれが気になり、神様に祈った。そしてこのことを学長に正直に告白をし、それでだめでしたら最初から始めるつもりだった。私は学長あてに手紙を書いた。その時もドキドキしていた。でも、神様の前で正直になることで生きることがよいと思った。その書いた手紙を学長に送り、学長にどんな判断でも下してくださいと書いたので、その返事を待っていた。従順するのは怖がった。でも書いて手紙を送ったときにはすごく平安だった。それから何日後、返事が来た。そこには、”あなたは大丈夫、わかった。そのまま勉学に励んでください。問題にしない”と書かれていた。

このように大変だったけど、でも神様に従ったときにこの上ない平安と喜び、また素晴らしい神様への体験が心に刻み込まれ、それから信仰は熱くなり、神様との関係が深くなってきた。

狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。(マタイ7:13)

皆さん、選択は神様に従う方向へしてください。その神様のほうを取るのが狭い門である。一方、自分の欲や好み、またはお金や名誉、権力が優位になってしまう選択は、広い門への選択である。最初は、広いほうが素晴らしく、その見栄えもよく、本当にすごい道のように見える。しかし、その道はどんどん狭くなる。そしてその道に悪魔はいっぱいであり、多くのトラップがかけられている。成功したとしても、逆にその成功のゆえに滅び、堕落し、腐敗してしまう可能性が高い。しかし、狭い道は最初はみすぼらしいけど、どんどん広くなり立派になり、豊かな実が多い道である。平安と恵みと、神の力が伴う道である。どんなことがあっても、広い道は危ない。狭い道、神の喜ばれる道を選択することである。

欲に従って決めてはならない。神の御心を探すのに時間をかける。お金や名誉などに従って選択をするのは悪魔の罠であり、神様の試しでもある。それよりは、使命、召命、神様の御心を追い求めることである。16節に書かれている。実を結ぶように神は願うが、永遠に残る実と書かれている。人間によって作った実は一時的であるが、神様の実は永遠に残る。とくにその神様に従って、祈って得られた実は永遠に続くようになる。そういう実を私たちは結ぶことで、体に神様を刻み込み、熱いかつ堅い信仰者へと成長していける。

3.人を愛する:愛には多くの実が結ばれる。魂への愛こそ永遠に残る最高の実。

私はこういう体験をして、信仰が少し熱くなり、今度はこの神様の働きをしていきたいと願うようになった。それで、大学を卒業して中学校の先生になった私は、結婚をして学校から3分程度のところに住まいを決めた。そして、私たち夫婦はこれから伝道活動をすること、そして若い人たちを育てる活動をしたくなり、家内と私は家をオープンすることにした。多分、インネがが生まれたばかりの時から、一週間に何回でもいいから夜に若い人たちを迎え、食事のもてなしをし、交わりや勉強会をした。その時には、大体20から25人程度の若い男たちを私がお世話をするようになった。木曜日は全員集まる、他の日は個人的に家に来てもらって食事から始める。多分、一週間に多い時は4-5回夜の食事と交わり、少ない時には2-3回だった。夫婦だけとかの食事はすくなかった。その時は、学生、教師、神学生、医学部生、一般の社会人だった。今彼らは成長をして宣教師、牧師、医師、教授、教師などとなって世界のいろんなところで神様のために働いている。その彼らは今もその時のことを忘れず、私たちに感謝を送ってくれる。私たちは、彼らを本当に愛し、私たちのもっていることを用いて最大に務めたように思える。そのみじめな愛を用いて実を結んでくださった。皆さんも魂への愛、仕えなどをもって生きていけば、きっと愛は必ず豊かな実を結ぶようになる。

ヨハネ21:15 「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」 「わたしの小羊を飼いなさい。」

4.結びと祈り

天の父なる神様! きょう体験的な信仰の大切さについて学び感謝します。主は私が信仰による実を結び、それを体験できることを望み、あらゆる場でその実を結ばせようと助けておられます。きょう、祈り、みことばの守り、魂への愛という領域で実を結ぶことの大切さを学びました。どうか、この私の人生にも自分ではなく神様による豊かな実を結び、抽象的な信仰ではなく体験的な信仰へと成長し、もっと熱い信仰へと変化していけますように。もっと粘り強い祈り、厳しい状況の中でも主のみことばへの道を選択する信仰と勇気、魂のために情熱をささげていく真の愛に励みたいと思います。私の弱さを助けてください。それによって永遠に残る実を結んでいけますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメンKakaoTalk_20191006_143022079.jpg

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