天国に入る人の真の姿(マタイ3:5-10)

●バリサイ人やサドカイ人とは
今日も同じであるが、イエス様当時も神様を信じると言いながら、全く聖書の教えに相応しくない人たちが多かった。その代表的な人たちが、バリサイ人、律法学者たちである。彼らは、頭や口では、本当に素晴らしい信者のように見えたが、行動や生き方は、少しも神様に相応しくなかった。まずは高慢、偽善などが特徴である。それで、イエス様は彼らを厳しく批判した。マムシの子と叱っている。マムシは毒を持っていて関わる多くの場合人々を殺す、だめな人たちである。彼らは救われることはできない。いや一番厳しい地獄の刑罰が待つだけである。

●イエス様の激怒の理由と内容
6節に他の人たちはみんな罪を告白してバプテスマを受けに来たのに、彼らはその過程がなくバプテスマだけを受けにきた。これを見たバプテスマヨハネは、バリサイ人やサドカイ人への厳しい毒舌といい、非難している。7節にマムシの子といい、さばきのみ怒りを逃れられないとか、10節に斧がお前らのそばに置かれていて、近いうちに地獄の火に投げ込まれることになるので逃れることはできないと話す。このような表現を見ると、彼らが受けるべき裁きの厳しさと確実性について認識できる。同じ内容がマタイ7章にも登場する。

マタイ7:19良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。20こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

●私たちの疑問
①ここには悔い改めにふさわしい実を結べ(10節)とか、または天におられるわたしの父のみこころを行うも者(上記のマタイ7:21)が天国に入るという意味は何だろうか。つまり、イエス様を受け入れるだけでは足りないのか。何か行いをしなければならないのではないかという疑問が生じる。

②また私たちの周りでもイエス様を受け入れたのに、あまり変化がなく信仰における成長がないのはなぜなのか? ある人はすごく成長するのに、ある人はなぜそれができないのか? 

●現代版バリサイ人・サドカイ人
今日も同じである。神を信じると言いながら、十字架と違う生き方をする人が多い。人を神様に導くところか、人々を神様から遠ざけてしまう。イエス様を信じても生き方の変化がない。教会に来るだけの違いしかない。職場や学校などでの生活は一変する。聖書に合わない、神様に喜ばないことばかりする。こういう人たちは、外面では救われた人のように見えても、実は救われていない。救われたとしても生き方に、行動に実り、変化がない。

たとえば、嘘をつき続ける人、非難や中傷が多い人、人を憎み赦せなかった人、酒やタバコなどの中毒になった人、パチンコに溺れた人、口が悪かった人、こういう人が変わるか、良くない行動を繰り返さないようになる。こういう変化こそ良い実であり、天の父の御心に少しずつ近づいていく人々の姿である。こういう姿が救われた人に現れるべき実である。

●では、なぜこういう人が生まれてしまうのか。
そのことが、3章6,7節に出ている。皆さん、6節は普通の人々がヨハネのところに来るまともな姿、しかし7節には非難されたバリサイ人たちの姿である。なぜ、6節の人々は何も言われないでバプテスマを受けたのに、7節のバリサイ人やサドカイ人は、バプテスマを受けるところか、強くさばかれたのか。その理由は何だったでしょうか。6、7節でその違いを探してみてください。答えを言いますと、だったの1つ、罪に対する悔い改めがあるかないかである(6・7節)。6節の人々はちゃんと罪を告白し、悔い改めて、それからバプテスマを受けたが、バリサイ人はこの過程がなく、バプテスマという形だけを取って救いを得ようとしたのである。この一つの違いが天と地の差をもたらした。一人は救われ、もう一人は救われないようになった。

自分の罪に対する徹底的な悔い改めがあれば、人間は自然と変化する。神様が喜ばないことをしたくない、つまり完ぺきではないけれども天の父の御心を行いたいと思うようになる。いつかまた罪を犯すかも知れないが、それも次第にしなくなる。罪や悪への頻度が少なくなる。これこそが、生き方の変化、良い実ではないか。キリスト教は、良い行いで救われることはできないと明確に教えている。それよりは、救われたら自然とよい行い、実を結ぶと話す。それは、こういう悔い改めに伴う生き方の変化をもたらすからである。マタイ7:21節を見れば、まるで天の父の御心を行う人、つまり良い行いをしないと救われないと思われ、エペソ2:8-9節の救いは行いによらないという内容と矛盾するかのように考えられる。しかいs、実はこの二つは矛盾ではなく、同じことであることを知る必要がある。良いことをすれば救われるのではなく徹底的に悔い改めをしてイエス様を受けいれば、自然と生き方の変化(良い実・天の父の御心への願望)が生まれる。

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。マタイによる福音書 7:21

●救いへの誤解(イエス様を受け入れれば救われるのでは)
受け入れる祈りをすれば、自動的に救われる。それはない。いくらバプテスマを受けても良い行いをしても、救いはない。自分の罪の悔い改めをしてイエス様を救い主として、人生の主人として受け入れる必要がある。罪の悔い改めがあって受け入れる人と、それがなく受け入れる人は表面的には似ているかも知れないが、中身は全く違う。あんこのないぱん、無精卵と有精卵の違いのようである。罪への告白や悔い改めが抜けた形式だけのバプテスマや受け入れる祈りの唱えだけでは、中にいのちがない無精卵である。無精卵は生命力がなく、新しいいのちも生まれられない。外見は同じでもあんこのないパンを食べられるのと同じである。

●罪への姿勢と変化(罪の告白や悔い改めは必須)
罪を自然と行う人、繰り返す人、痛みを感じない人は罪への告白や悔い改めをしたとは思えない。むしろ罪を楽しむではなく、罪を嫌う、悲しむ、告白する。これが罪への明確な告白と悔い改めができた人の特徴である。

偉大な人、ダビデも罪を抱え込んで生きることはできなかった。彼は涙を持って悔い改める場面が多い。パウロも同じである。あんなによい人なのに、自分を罪人の頭で、罪や欲に支配されそうな自分を見て惨めな人間と告白する。しかし、多くの罪を知らずのうち犯している私たちは罪に無感覚で”別にそんなに悪くない”と思っているのではないだろうか。それは罪に麻痺されているからである。神経がマヒされると、痛みがわからないように、罪への感覚もマヒしていて、なかなか自分の罪を認識できない。

Ⅰテモテ1:15あなたの知っているとおり、アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました。その中には、フゲロとヘルモゲネがいます。

ローマ7:23私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。


悪魔の力の元は罪である。悪魔は私たちの罪や不信仰を食べて元気になる。罪は人間をさばきや地獄という永遠なる刑罰へ導く力をもっている。罪が人間をだめにした。神様との溝を作った。だから罪を簡単に受け入れてはならない。

本当に悔い改めた人は、罪に対し敏感になる。現代版のバリサイ人は、これが罪だと聖書に書かれているのかどうかだけを考える。つまり、明確に書かれていないならば、罪を楽しみたい。しかし、本当に悔い改めて救われた人は、それが罪かどうかよりは、神様が喜ぶかどうかで判断する。罪かどうかはわからなくても、神様が喜ぶかどうかはだれもがすぐわかる。

●最後の結び
昔も今も教会の中には、無精卵と有精卵の信者が混ざっている。私たちは表面的にはよくわからない。もちろん、罪への認識も悔い改めもなく、まるでいのちも生命もない無精卵のようになってはいけない。マムシの子のような存在のように、近づいている神の怒りの裁きを受け、火に投げ込まれることが決まっている、そんな信仰者となってはいけない。もう一度罪への悔い改めをしっかりしてそれから受け入れる、またはバプテスマを受けるなどのことが必要である。この最初のボタンをしっかりはめることが一番大事である。

・罪の告白と悔い改めの祈り
・イエス様の救いを確認し感謝

●結びの祈り
イエス様、きょうはダメな信仰の典型的な姿をバリサイ人やサドカイ人を通して教えてくださいました。本当に感謝します。どうか、私の中にもこういうバリサイ人のような姿があることを気づきました。もう一度、自分の信仰を振りかえ、真の信仰者と生まれ変わることができますように。そして神のみ怒りとさばき、火の池ではなく、神の救いと褒めをいただき、天国へ導かれる人へと成長できますように。感謝してイエス様のみ名によって祈ります。アーメン

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント