イエス様の弟子として生きるとは(マタイ28:18-20)

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<きょうのみことば:マタイ28:18-20>
18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」


<説教本文>「 動画を視聴する方 https://youtu.be/GgLPkvjINc4
この聖句はイエス様がこの世を去る時に、残した遺言のようなもので、ある意味一番大事なことだと思います。イエス様は弟子を作るように言われています。単純にクリスチャンや救われた人ではなく、弟子をつくりだすようにと命じている。19節にバプテスマを授けるとは、人の救いのことである。しかし、それだけではなく、その彼らをもっとみことばを教え、守るように訓練して、弟子までに成長させるようにと言われた。多分、これを見ると、少なくとも弟子はイエス様が考える理想的な信仰者であり、キリストの心に適う人だと思うことができる。

弟子とは、一言でいうと、イエス様の生き方を見習い、その生き方にしたがって生きる人、いわゆる小さいイエス様である。

弟子(Disciple)の英語の意味は、訓練(discilpline)の意味がある。弟子は訓練なしにはできない。つまり、自分勝手に生きるクリスチャンは弟子ではない。神様の国で訓練なしには、使い道がない。神様が用いようとしてもできない。この世の仕事でそうだし、何でも訓練なしには使い道がない。また訓練なしでは、生活の変化もない。クリスチャンになって20-30年経っても、クリスチャンになったばかりの人と差があまりない。むしろ、新しいクリスチャンのほうが新鮮だと思う。もちろん知識だけはあるかも知れないが、他は差がないか悪い。聖書も読まない、祈りもしない、伝導もしない、罪や悪、悪習慣や癖への変化もない。一体何がクリスチャンなのかわからない。したがって教会のクリスチャンも訓練することが強く求められている。皆さん、自分の職場や仕事などを考えてみてください。どれほど一生懸命に訓練をしたのか、生まれてから今まで30年近くを学校で学び、それも足りなくて英語を身に着け、資格を身に着け、それでも足りなくて職場に入ったら最初の何年くらいは訓練させられ、それでやっと使われる。

●説教、養育(育成)、訓練の違いと意味
バランスの取れた教会には上の3つが共存すべきである。従来の教会では説教だけが大事にされたが、私がよく言う彼ども、教会の説教だけでは人は変わらない。説教はまるで講義のようなもので、それだけでは人はなかなか変化しない。そこに、1対1で、または少人数でのフォロー(育成や養育)が必要である。これは相手に合わせたオーダーメイドでやり取りをしながら育てていく過程が育成である。足りないところ、できないところをいちいち丁寧に教えたり助けたりすることである。その後は個人の訓練が必要である。訓練とは自分ですることである。これが最終段階である。信仰者として、弟子として大事な態度や技術、習慣、姿勢を身に着けるために努力することである。そうすることで初めて人は生活の変化、態度の変化などが現れてくる。今私たちの教会は、説教はあるものの、フォローや訓練は弱い状態である。これから牧者たちと一緒にこれを少しずつ変えていく必要があると思われる。

弟子というのは、結局一人一人のクリスチャンの質を高めるということである。いい加減なクリスチャン、好きかったにするクリスチャン、この世で光と塩のような役割を果たせず力のない信者、世と信仰の間でどっちつかずのあいまいな信者、天国では報いもないそういう信者では行けないということである。数も大事であるが、まずは一人ひとりの信仰における質を高めることである。それが弟子ということばの意味である。一番最悪は数も質もない教会になってしまうことである。

1.みことばに止まる者(生き方の基準)
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちにいわれた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。(ヨハネ8:31)

その次は、イエス様を受け入れた彼がみことばに根ざす生活をすることが大事です。

あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。(コロサイ2:6~7)

2.愛する者(弟子として生きる原動力)
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:34~35)

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(Ⅰヨハネ3:18)

 人間は、愛によって生きる存在です。全てが全部揃っていても愛がなければ、生きる意味を失ってしまいます。Ⅰコリント13章には、愛がなければ全てが空しくなると書いています。神様と人間を愛することこそ、聖書の核心です。人間を愛することがなくては、イエス様があの十字架を罪人である私たちのために背負うことはできなかったでしょう。このようにイエス・キリストについていく弟子には、どうしても「愛」が一番必要となるのです。愛なしでは人の救いに携わることはできなく、人を救うどころかその人を滅びに導いてしまいがちである。愛があるからまた弟子としての厳しい訓練も乗り越えることができる。愛なしの訓練だけは寂しすぎです続けられない。塩気のないおかず、あんこのないパンのようなものである。

3.実を結ぶ者(弟子として生きる木庭)
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネ15:8)

木は成長すると、必ず実を結ぶ。私たちの心にも、みことばの種が蒔かれたら、成長の結果、信仰の実を結ぶようになる。種、成長、実は、生きたものの特徴である。それでは、どういう実を結ぶべきか。

●「人格の実」
イエス・キリストを信じてから、聖霊様によって結ばれる品性であり、生まれつきの性格とは違う。これこそが永遠に変わらない、価値あるもので神の国で通用する、神の国の拡張のために必須不可欠のものである。

●伝道の実:魂の救い
実を結ぶことで初めて信仰は強く堅くなります。体験信仰になります。ある一人が、神様の子供として生まれるようになると、内なる人が新しくなる。すなわち、外見は変わらないが、実際にはその人の永遠の身分が変わり、地獄から天国への行き先も変わる。また、人生の中心にイエス様がおられることになり、世を生きる生活のパターンや考え方、価値観等の様々な面においても変化が始まる。これらの生まれ変わった要素によって、クリスチャンは自然に周りの人々にイエス様を現わすことになり、それによって神を知らない人たちがイエス様を信じるようになる。このように、自分の生活や言葉、また人格によって自然らしい伝道が可能になり、魂の救いという実を結ぶことができる。

4.主のためにすべてを犠牲にすることができる人、第一に求める者「LORDSHIP」(弟子としての生き方の犠牲と祝福)
わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。(ルカ14:26)

普遍的に、人にとって一番難しく思うのが、家族や血縁関係にある人である。その問題なると、イエス様は順位が後ろになってしまう。もちろん、人によっては、お金と仕事、異性、友たち、子供などがイエスさまより上にあることもある。あなたはどういうことがイエス様が私の人生の主人となるのに一番妨害となっているのか。

イエスは、みなの者にいわれた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカ9:23)

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

弟子とは、イエス様が私たちに対し、こういう生き方をするように願っている、いや命じている最高のクリスチャン、バランスの取れたクリスチャンの生き方である。つまり、信者の生き方のスタンダードを示したものである。ホテルでいえば、5星のホテル、軍人で家えば、昔は士官学校、今は防衛大学、たとえがピッタリするとは思わないけど、オクスフォード大学やハバード大学、東大みたいなところ。

これらのことを考えると、まずはみことばと祈りによるQTを毎日または半分以上はQTをすること、祈りの時間を少しでも確保する、伝道のための活動をする、自分がフォローする人のための活動もする。こういう活動をしていくうちに、愛も、みことばにも、人格のみも、伝道の実も、また忠実なクリスチャンとして成長できるはずである。

●QT、祈りの時間、伝道活動、フォロー活動、LORDSHIP(キリストを主とする、主を第一にする姿勢)

<結びの祈り>
天の父なる神様、きょうはイエス様が最後に私たちに残した最高に大切な至上命令について考えてみました。イエス様が願っている信仰のスタンダード、理想的な信仰についてのことでした。それは、弟子という生き方であり、4つのことを語ってくださいました。どうか、私たちも弟子という中身の詰まった、そしてバランスの取れた理想的な信仰者、さらに多くの報いと褒めをいただける弟子としての生き方を日々追求していけますように。それによって私の信仰人生は決して空しくはなかったと告白できるようにしてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン

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