神を認めて生きるか、そうではないかによって生き方がこんなに変わる!

神を認めて生きることは、何が罪でしてはならないのかを知ることである。つまり、ある意味生きることへの制限をかけることなので、勝手に生きようとする人、自由に罪を犯し、欲のまま生きようとする人には、不便かも知れない。というのは、罪のこと考えず、罪と欲まみれの人生が楽しいと思うからであろう。しかし、その最後の厳しい結果には、目をつぶりたい自分勝手な思いが常に優先するのである。クリスチャンは、そのような人生に歯止めをかけることをあえて選択した人達である。今のしばらくの快楽のために未来の厳しい結果に目をつむるか、反対に近づいてくる厳しい未来を考え、きょうの自分の欲や快楽のための自由に制限をかけるかである。その選択は自由であるが、結果まで自由ではないことに覚悟しなければならない。
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私にとって福音とは?

キリストの十字架によって完成された人間救いへの道、つまり福音は人によって受け入れ方が様々である。一番目の段階は、福音とは私と関係ない、第三者的な立場で見る人達、次の段階はキリストの福音は少しは分かるけど、でも弱々しく恥ずかしいものとして感じる人達、最後の段階は福音こそキリストの尊い犠牲によって私達に与えられた今と死後における完全なる救いの力だと受け入れる人達である。

しかし福音は私達誰にとっても決して無関係ではない。いつかこの福音によってすべての人の永遠が天と地の違いのように開かれるようになるからである。また福音は決して弱いか恥ずかしいものではない。あなたを永遠の滅びから天国に導けるいのちと救いの力だからである。この福音に一歩ずつ近づいて行くことが信仰の発展である。一人でも多くの人が福音を通して救われることを祈りたい。
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クリスマスの案内

2019クリスマス_アートボード 1_アートボード 1_アートボード 1.jpg今年のクリスマスの案内です。
12月22日土曜日の夕方4時半から始まります。
1部はクリスマス記念礼拝、2部はクリスマスパーティです。
誰でも無料で参加できます。
クリスマスは、教会で過ごすべきだと思います。
クリスマスの真の意味を知り、教会でクリスマスを過ごすというのは大いに価値あることと思います。
時間可能な方はぜひ参加してみてください。

牧師 姜

むしろ感謝の中毒(コロサイ4:2)

最近、中毒の問題が大きな社会問題となっている。お酒やギャンブル、薬物、薬などの様々なことがある。一回この中毒にはまってしまうと、多くのことを失う。最初は、遊び半分で軽い気持ちで始めたのが、ついその奴隷となってしまい、簡単にそこから抜けることができなくなってしまう。一回その世界に入ると、自力では解決できない。その弊害については話をする必要がない。中毒も基本はつらい自分のことを考え、何かによって癒されたいと思うことから始まる。つまり、この世は何かによって狂わないと、生きていけないほど苦しいという意味である。まともの精神では生きていけないような思いがある。それほど、つらいということである。

こういう中毒まではいかないけど、人々の中には口癖のように悪口をしたり、不平不満したり、中傷したり、非難や批判したりする人が多い。悪くて破壊的なことばの中毒の弊害も小さくない。口から出ることばは、その人の心の状態を示す。口から出るよくないことばによって、心が病むようになる。病気まではいかなくても決して幸せな生活は送れない。口を開けば否定的なことば、悪口、自分や人の心を病ませる毒を出す否定的なことばの中毒も決して小さな問題ではない。

そこで、きょうは破壊的なことばの中毒より、むしろ感謝の中毒について考えてみたい。中毒になるならば、健全で人を生かす感謝の中毒者となるようにという意味である。

去る約一年間、神様は私たちの人生に多くの恵みを与えたことだろう。目に見えることもあるでしょうし、目に見えない祝福も多くある。親が子供のために苦労するのは、もちろん子供に見える部分もあるでしょうし、むしろ子供の目には見えない部分が多いかもしれない。神様が私たちのためにするのも、見えない部分がはるかに大きいはずである。こういうすべてをもってきょうは感謝をささげる時間としたい。

宣教師アンダーウッドが習慣のように書く祈りノートに書かれた内容です。

「歩くことさえできれば、より大きな祝福は望まないです。
だれかは今、そう祈りをします。
聞くことさえできれば、より大きな祝福は望まないです。
だれかは今、そう祈りをします。
見ることさえできれば、より大きな祝福は望まないです。
だれかは今、そう祈りをします。
生きることさえできれば、より大きな祝福は望まないです。
だれかは今、そう祈りをします。
驚くべきことに、誰かの切実な願いを私はすべて答えられています。
驚くべきことに、誰かが熱心に願っている奇跡が私には日々起きています。
私の一日は奇跡です。私は幸せな人です。」


1.信仰者のトレードマーク(商標)とは
Ⅰテサロニケ5:16いつも喜んでいなさい。17絶えず祈りなさい。18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

喜び・祈り・感謝が出ている。この3つがクリスチャンのマークである。
いつも不安、心配、感謝より避難、抽象、不平不満を出すと人は、真の信仰者とは言えない。
ここに見ると、すべてのことについて感謝しろとなっている。目に見えてよいことは感謝できるけど、目に見えてよくないようなことにまでどうして感謝できるか。難しいかもしれないが、しかし真の信仰者にはそれができる力が与えられる。

2.苦しみや心配が祈りに出会うと、感謝と奇跡が起こる。
人が神に出会うと、人格が変化する。人が聖書に出会うと、否定的な面、暗闇が明るく変わる。
熱い神様の愛に触れると、人は変わるしかない。聖書の中のラブストーリーは、温かい。イエス・キリストが、最悪の罪人までも愛し赦すために十字架の上で死んでくださった。人間を愛するゆえに、救うために、神である方が人間の体を着てこの世に来られた方がキリストである。地獄の罰を受けるはずの人間が救い主に出会うようになると、喜びと感謝であふれる。

現代社会は、闇の社会、病む社会である。日本も韓国も似ている。それで病気も多くなるし、生きるためにもっと病むしかない社会である。競争も激しく、苦しみも多い複雑な世界に生きている。こういう荒れている社会で果たしてすべてのことについて感謝できるか。当然、感謝は闇をなくし、心や体の病みも無くす。つまり、感謝があふれるところに病や影はない。

●ヨセフの場合:ヨセフは信頼すべき兄弟たちに裏切られ、エジフトの商人たちに売られてしまった。そしてエジフトに行ってからも、彼はボティファルの奥さんのうその告発に行って牢に入れられた。その中でも彼は最後まで神を信じ続けた。やがては総理にまで上り詰めた。

●ヨブの場合:彼は本当に砂らしい信仰者である。しかし、悪魔の攻撃によっていきなり子供たちが全員死に、また羊などの財産がなくなり、最後には自分も病気にかかり究極の苦しみを受けた。

多分、普通人たちはこんな厳しいことに出会ってしまうと、病気にかかるか、おかしくなる。しかし、神が共にしていたからこそ彼らはそこから立派に変化することができた。

●心配、苦しみの時に、私たちは祈りの手を挙げる。すると、そこから奇跡が起こる。環境も変わるだろうが、私の心も平安のうちに守られる。そして感謝に変わる。心配や苦しみが、神への祈りに変化するならば、喜びと感謝に出会うようになる。

●ハバククの例話
ハバクク3:17そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。18しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。

●神様の究極的な心と約束
ローマ8:28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

ハバククは、最悪の状態の中でも彼は喜ぶことができる。なぜでしょう。感謝は目に見える何かが良いからするのではない。それは長くいかない。環境は次々と変わるからである。それよりは、私の救い主、愛の神が共にするからであろう。よい収穫のための喜びならば長くいかないが、しかし永遠に、どんなときにも共におられる神様のゆえにわれらは喜ぶ。そして大変な時にも感謝できる。

ローマ8:28の聖句の通り、きっと神が最善の道へ導いてくださるという希望と信仰があるからである。

結びの祈り
天の父なる神様! きょうは収穫感謝記念礼拝です。この一年も私たちの目に見える、見えない様々な恵みと祝福をもって私たちを導いてくださったことを感謝します。しかし、私たちは喜びも感謝もあまりできず、時には心配や不平不満、人への避難や悪口などの不信仰の姿が多くありました。こんな私をお許しください。こういう心配や苦しみが祈りへ変わっていき、そこから感謝、喜びをくみ上げることができますように。やがては、私の口を感謝の言葉で満たし、私の心を喜びと平安をもって満たしてくださることを神言います。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン





過去の労苦は無駄ではない(Ⅰコリント15:58)

Ⅰコリント15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

きょうのメッセージは神学生の前田洋志兄弟です。
テキストはないのでご覧になりたい方は、以下の動画をご利用ください。

以下の写真は11月16日にJOY CAFEで行われたゴスペルレッスンです。

https://youtu.be/j1nZ_MEkf8k

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見える世界、見えない世界のどちらを追求すべきですか(Ⅱコリント4:7-9, 16-18)

7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。


1.対照的なことばの登場
きょうのこの箇所には、多くの対照的なことばが登場する。7節に、土の器と宝、16節に外なる人と内なる人、17節に今の時の軽い艱難と重たい永遠の栄光、18節に見えるものは一時的で、見えないものがいつまでも続くとなっている。

ここで見えるものとはこの世のことであり、見えないものとは神様、キリストが働く世界である。もちろんいずれかこの世は終わって神が支配する世界に変わるけれども、その国が今は見えない。けど存在するし、将来現れる国である。見える今の世界はみんなが知っている。もう一つ、見えない神様の世界があることを教えている。それは天と地の違いをもたらすのである。この2つの世界に起因する2つの観点、そしてそれらの意味について考えてみよう。

2.2つの世界観
当然、聖書を知らない時、いや神様を知らなかった時に、私たちには一つの世界しかなかった。つまり、私たちの頭の中には、この世という世界観しかなかったのである。しかし、神様を知ってから、私たちはもう一つの世界、見えない世界があることを知り、2つの世界観ができるようになった。そして時々、この二つの世界観が衝突したりする。

★海の世界:大体海は外側しか見えないが、実際海の下にも美しい世界が存在する。同じく今までの見える世界に比べると、見えない世界ははるかに広い世界であり、私たちの視野が大きく広がる。

★氷河の動きは実は海の下の潮流によって左右される。見える表面によって動いてはいない。同じくこの見える世界も見えない世界、神様によって動かされている。ヘブル11:3節に書かれている。つまり、この見える世界は見えない神様によって作られ、動かされているということである。

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

★今まではこの見えない世界については盲目であったかもしれない。みなさん、目が見えない方を考えてみてください。どれほど、もう一つの見える世界を憧れているだろうか。もし、見えるようになったら、すごい世界を見てどれほど感動するようになるだろう。その方たちも、見える世界、見えない世界の2つを持っている。

★見えない世界に対し盲目である私たちも、もう一つの世界が見えるようになったら、どれほど感動するだろう。もちろん、この見えない世界は今もわかるが、私たちが死んでから本格的に入るところで、それまでは肉眼で見ることはできない。しかし、その国は永遠である。

★この見えない世界は、イエスキリストの神様が支配し、見えるこの世は実は悪魔が強く働き、人間を惑わし、人間が神を知ることができないように働いている。下の聖句には、悪魔は人間が神様の光に当たらないようにと、それぞれの心をくるませる働きに専念していると書かれている。

Ⅱコリント4:4そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

実は見える世界は、トリックによっていくらでも簡単に騙される。見えるというのは決して強くなくもろい。だからマジックの世界が存在する。簡単に人の目をだますのである。そういう見える世界だけを頼って生きるとは、ある意味怖いし、正しいとは言えない。見えるって、そこまで確かなことではないという意味である。あまり目に見えるこの世を信じすぎても困るし、危ない。

★アメージンググレイスを作詞したジョンニュートンは、この見えない、神の世界を今までは知らなくて、自分は盲人だったと話し、しかし今は見えると話す。

Amazing grace! (how sweet the sound)
That savd a wretch like me!
I once was lost, but now am found.
Was blind, but now I see.

何と素晴らしい恵みだろう。(何と素晴らしい響きだろう)
私のような哀れな者までも救ってくださるとは。
私は道から迷ってしまったが、今やっとその道を見つけた。
今までは自分は(神に対して)盲目だったが、やっと(神のことを)見ることができた。

★見える世界は、私たちが生きている間だけ存在するが、見えない神の国は今はもちろん、私たちが死んでからも永遠に存在する国である。(18節)

3.見えない世界の始まり
この見えない世界、神の国は、私たちの心に神様、イエス・キリストが入ってくる時から始まる。それを7節にはこう表現している。そして私たちの中に、このキリストという宝が入ってくるときに、私たちの人生にどんな変化が生まれるかが書かれている。

★変化①:強められると書かれている
7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

私たちは、ここには土の器と書いてある。土の器は簡単に壊れ、ひびが入り、すぐだめになるのである。そんな土の器に、この宝である、キリストが入るようになると、そこには全く違う変化を遂げるようになる。土が、素晴らしい陶器に変わることに似ている。

Ⅱコリント4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。7節に、私たちの体や心は土の器と書かれている。よく壊れる、よく故障する体である。しかし、イエス様を救い主として私たちの中に入ってくるときに、どうなると書かれていますか。8-9節にあるので四あみましょう。

なんと素晴らしい祝福であろう。いくら苦しみ、艱難、避難、迷いがあっても決してそれでつぶれることはない。というのは、上からの神様による道はふさがることがないからである。心配しないでください。どんあことがあっても大丈夫!!

★変化②:日々新しくされる
Ⅱコリント4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

外なる人は、土の器の体、内なる人はイエス様が共にする魂のことである。普通ならば、内なる人も、外なる人も徐々に年齢と共に衰えるのが当たり前なんだけど、ここには外なる器は衰えても、内なる魂や心は新しくなると書かれている。なぜだろうか。内なる人が新しくなる理由はその中に永遠の命であるイエス様がいるから、新しい命によってどんどん新しくなるのである。

4.人たちへの警告
★世に対してはすごい賢い人で神様に対し愚かな人であっては困る
詩編14:1愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。


こういう神がいないという愚かな人たちは、この世が終わって初めて神の国があることに気づく。そして、後悔の嘆きと歯ぎしりをするようになるだろう。愚かな人生の結末である。

★世に対し愚かな人で神様に対しては賢い人であってほしい


ピリピ3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、

上記の聖句でパウロは、今までそこまで愛していたこの世のことをもうちりあくたのように思うようになった話す。というのは、神の国のすばらしさを知ってしまったからである。それで、神様は以下のように私たちに警告している。

Ⅰヨハネ2:15世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。16すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。17世と世の欲は滅び去ります。

この世にあまり執着しすぎて、それを愛してはならない。いずれかなくなるそれにすべての希望をおいて生きては後悔しか残らない。永遠に存在する見えない、神の国を求め、それに執着して生きるべきだと話す。

マタイ6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

順番が大事である。この世のことと、神の国のこと、2つが衝突したときには、まず神の国を第一に求めるべきだと話す。そうすれば、神の国を求めるゆえにできなかったこの世のこと、マタイ6:33では最後の部分に「これらのこと」となっているが、それを神様が与えてくださると約束している。しかし、この世のことを先に求めてしまうと、両方を失う。そんな愚かな選択をするようになってはならない。

最後に、いまだにキリストに対し、さまよっている方は、このキリストを受け入れ、新しい、素晴らしい人生、もっと広く深い視野をもって、永遠なる世界のために、この世を生きるように祈ります

5.結びの祈り
天の父なる神様! きょうも見える世界だけではなく見えない世界について強く気づかせてくださりありがとうございます。いつも目に見えるこの世に夢中になっており、永遠なる神の国のことをついつい忘れてしまう、私を憐れんでください。世のことに夢中になっている自分の目を神様やイエス様に固定することができるようにしてください。この世の快楽に流されないでしっかり中心を取り、キリスト者として恥のない生活を送ることができますように。見えない世界を見据えて今のこの短い人生を歩むことができますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン

イエス様の弟子として生きるとは(マタイ28:18-20)

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<きょうのみことば:マタイ28:18-20>
18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」


<説教本文>「 動画を視聴する方 https://youtu.be/GgLPkvjINc4
この聖句はイエス様がこの世を去る時に、残した遺言のようなもので、ある意味一番大事なことだと思います。イエス様は弟子を作るように言われています。単純にクリスチャンや救われた人ではなく、弟子をつくりだすようにと命じている。19節にバプテスマを授けるとは、人の救いのことである。しかし、それだけではなく、その彼らをもっとみことばを教え、守るように訓練して、弟子までに成長させるようにと言われた。多分、これを見ると、少なくとも弟子はイエス様が考える理想的な信仰者であり、キリストの心に適う人だと思うことができる。

弟子とは、一言でいうと、イエス様の生き方を見習い、その生き方にしたがって生きる人、いわゆる小さいイエス様である。

弟子(Disciple)の英語の意味は、訓練(discilpline)の意味がある。弟子は訓練なしにはできない。つまり、自分勝手に生きるクリスチャンは弟子ではない。神様の国で訓練なしには、使い道がない。神様が用いようとしてもできない。この世の仕事でそうだし、何でも訓練なしには使い道がない。また訓練なしでは、生活の変化もない。クリスチャンになって20-30年経っても、クリスチャンになったばかりの人と差があまりない。むしろ、新しいクリスチャンのほうが新鮮だと思う。もちろん知識だけはあるかも知れないが、他は差がないか悪い。聖書も読まない、祈りもしない、伝導もしない、罪や悪、悪習慣や癖への変化もない。一体何がクリスチャンなのかわからない。したがって教会のクリスチャンも訓練することが強く求められている。皆さん、自分の職場や仕事などを考えてみてください。どれほど一生懸命に訓練をしたのか、生まれてから今まで30年近くを学校で学び、それも足りなくて英語を身に着け、資格を身に着け、それでも足りなくて職場に入ったら最初の何年くらいは訓練させられ、それでやっと使われる。

●説教、養育(育成)、訓練の違いと意味
バランスの取れた教会には上の3つが共存すべきである。従来の教会では説教だけが大事にされたが、私がよく言う彼ども、教会の説教だけでは人は変わらない。説教はまるで講義のようなもので、それだけでは人はなかなか変化しない。そこに、1対1で、または少人数でのフォロー(育成や養育)が必要である。これは相手に合わせたオーダーメイドでやり取りをしながら育てていく過程が育成である。足りないところ、できないところをいちいち丁寧に教えたり助けたりすることである。その後は個人の訓練が必要である。訓練とは自分ですることである。これが最終段階である。信仰者として、弟子として大事な態度や技術、習慣、姿勢を身に着けるために努力することである。そうすることで初めて人は生活の変化、態度の変化などが現れてくる。今私たちの教会は、説教はあるものの、フォローや訓練は弱い状態である。これから牧者たちと一緒にこれを少しずつ変えていく必要があると思われる。

弟子というのは、結局一人一人のクリスチャンの質を高めるということである。いい加減なクリスチャン、好きかったにするクリスチャン、この世で光と塩のような役割を果たせず力のない信者、世と信仰の間でどっちつかずのあいまいな信者、天国では報いもないそういう信者では行けないということである。数も大事であるが、まずは一人ひとりの信仰における質を高めることである。それが弟子ということばの意味である。一番最悪は数も質もない教会になってしまうことである。

1.みことばに止まる者(生き方の基準)
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちにいわれた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。(ヨハネ8:31)

その次は、イエス様を受け入れた彼がみことばに根ざす生活をすることが大事です。

あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。(コロサイ2:6~7)

2.愛する者(弟子として生きる原動力)
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:34~35)

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(Ⅰヨハネ3:18)

 人間は、愛によって生きる存在です。全てが全部揃っていても愛がなければ、生きる意味を失ってしまいます。Ⅰコリント13章には、愛がなければ全てが空しくなると書いています。神様と人間を愛することこそ、聖書の核心です。人間を愛することがなくては、イエス様があの十字架を罪人である私たちのために背負うことはできなかったでしょう。このようにイエス・キリストについていく弟子には、どうしても「愛」が一番必要となるのです。愛なしでは人の救いに携わることはできなく、人を救うどころかその人を滅びに導いてしまいがちである。愛があるからまた弟子としての厳しい訓練も乗り越えることができる。愛なしの訓練だけは寂しすぎです続けられない。塩気のないおかず、あんこのないパンのようなものである。

3.実を結ぶ者(弟子として生きる木庭)
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。(ヨハネ15:8)

木は成長すると、必ず実を結ぶ。私たちの心にも、みことばの種が蒔かれたら、成長の結果、信仰の実を結ぶようになる。種、成長、実は、生きたものの特徴である。それでは、どういう実を結ぶべきか。

●「人格の実」
イエス・キリストを信じてから、聖霊様によって結ばれる品性であり、生まれつきの性格とは違う。これこそが永遠に変わらない、価値あるもので神の国で通用する、神の国の拡張のために必須不可欠のものである。

●伝道の実:魂の救い
実を結ぶことで初めて信仰は強く堅くなります。体験信仰になります。ある一人が、神様の子供として生まれるようになると、内なる人が新しくなる。すなわち、外見は変わらないが、実際にはその人の永遠の身分が変わり、地獄から天国への行き先も変わる。また、人生の中心にイエス様がおられることになり、世を生きる生活のパターンや考え方、価値観等の様々な面においても変化が始まる。これらの生まれ変わった要素によって、クリスチャンは自然に周りの人々にイエス様を現わすことになり、それによって神を知らない人たちがイエス様を信じるようになる。このように、自分の生活や言葉、また人格によって自然らしい伝道が可能になり、魂の救いという実を結ぶことができる。

4.主のためにすべてを犠牲にすることができる人、第一に求める者「LORDSHIP」(弟子としての生き方の犠牲と祝福)
わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。(ルカ14:26)

普遍的に、人にとって一番難しく思うのが、家族や血縁関係にある人である。その問題なると、イエス様は順位が後ろになってしまう。もちろん、人によっては、お金と仕事、異性、友たち、子供などがイエスさまより上にあることもある。あなたはどういうことがイエス様が私の人生の主人となるのに一番妨害となっているのか。

イエスは、みなの者にいわれた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカ9:23)

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

弟子とは、イエス様が私たちに対し、こういう生き方をするように願っている、いや命じている最高のクリスチャン、バランスの取れたクリスチャンの生き方である。つまり、信者の生き方のスタンダードを示したものである。ホテルでいえば、5星のホテル、軍人で家えば、昔は士官学校、今は防衛大学、たとえがピッタリするとは思わないけど、オクスフォード大学やハバード大学、東大みたいなところ。

これらのことを考えると、まずはみことばと祈りによるQTを毎日または半分以上はQTをすること、祈りの時間を少しでも確保する、伝道のための活動をする、自分がフォローする人のための活動もする。こういう活動をしていくうちに、愛も、みことばにも、人格のみも、伝道の実も、また忠実なクリスチャンとして成長できるはずである。

●QT、祈りの時間、伝道活動、フォロー活動、LORDSHIP(キリストを主とする、主を第一にする姿勢)

<結びの祈り>
天の父なる神様、きょうはイエス様が最後に私たちに残した最高に大切な至上命令について考えてみました。イエス様が願っている信仰のスタンダード、理想的な信仰についてのことでした。それは、弟子という生き方であり、4つのことを語ってくださいました。どうか、私たちも弟子という中身の詰まった、そしてバランスの取れた理想的な信仰者、さらに多くの報いと褒めをいただける弟子としての生き方を日々追求していけますように。それによって私の信仰人生は決して空しくはなかったと告白できるようにしてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン