一年の振り返り(信仰の充電と放電)ローマ12章1-3

ローマ12:1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。3私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

去年の一年は皆さんにとってはどんな一年だったと思いますか。去年も皆さん、種は撒きましたか。実の収穫はどのくらいだったのか。祈って与えられたことはどのくらいですか。

人にとっては嬉しそうな一年だったかもしれないし、人によっては今年は最悪だったという人もいるかもしれない。罪や悪に触れて、神様に申し訳ないという記憶しかない人もいるかもしれない。ある人は、この一年の間に多くの成長を重ね、よい神様のクリスチャン、働き手として認められた人もいるかもしれない。

感謝も後悔も、また悔しさもあるかもしれないが、でも一年のことを通して私たちはいろんなことを学んだはずである。祝福を通して学ぶより、失敗や苦しみを通して学ぶほうが多い。大事なことはすべてが私たちの成長の材料となることができるということである。それぞれをよい形で用いることである。こういう一年という節目があるということは、来年には今年よりもっとよい成長を重ねる反省と計画をするためのことだと思う。

人生の悲しい告白は、”できるはずだった、すべきだった、するつもりだった”という話で終わることである。理想と実際の現実が全く違うようになってしまうことが多くある。私たちはいつか、人によっては近いうちに、一年ではなく人生そのものを締める時が来る。その時にわあつぃたちはどのような思いでいられるだろうか。

きょうの箇所、ローマ12章には実はいろんなことが書かれている。つまり、私たちの信仰生活についていろいろな内容が書かれている。信仰者としてどのように生きるべきなのか、何を大事にすべきかを書いている。

●1-3節:神様との関係においてどう生きるべきか
●4-8節:神様から与えられた賜物を用いてどのように生きるべきか
●9-21節:クリスチャンとして社会的な責任、つまり周りの人とどのような関係を保つべきなのか。

この中でも、きょうは1-3節を中心に考えてみたいと思う。

信仰というのは、何らかのケアをしない限り、必ずなくなり、変形していくものである。ほっといて成長する信仰はどこにもない。信仰は簡単に放電したり、破壊されたり、ずれてしまうものである。確かにこの世を生きていくときには、信仰は必ず放電する。信仰的環境がよいところではゆっくり放電するけど、信仰的によくないところではその放電は激しくなる。全部放電してしまうと、信仰者としての機能は停止してしまう。信仰はそのままほっといてしまうと、自然と放電する。しかし、充電は自然ではない。放電してしまうと、神様への信仰も、愛も、恵みもなく、人生はものすごくドライになってしまう。信仰へのやる気も、希望も、人生のうるおい、真の喜びと平安もなくなる。信仰にも罪にも、悪にも人生にも無感覚となり、また神様への反応もなくなる。いわゆる、ほぼ死の状態になってしまう。

聖書の中でもそういう例がたくさんある。イエス様の12弟子も、イエス様が十字架にかかる寸前みんなイエス様から逃げてしまった。放電しちゃった。イエス様と一緒にいるときは、イエス様から与えてもらい、何とか自分が弱くとも維持できたが、イエス様がいなくなると急におかしくなり、彼らは信仰を捨てて全部昔の漁師の生活に戻った。

旧約聖書の創世記にはアブラハムと一緒に信仰の地に向かっていたロトが自分の叔父、アブラハムと土地や所有のことではぐれることで、ロトは信仰の放電が始まり、結局彼はソドムとゴモラという罪悪があふれる都市に入り、最後にはその街へのさばきによって硫黄の火で燃やされ、妻が死ぬなどの家族を失い、生き残った彼は娘と逃げ命を得たものの、近親相姦により恥ずかしい民族モアブとアンモンを世に出した。旧約の有名な信仰の勇士、ダビデもそういう人だった。一時の間違い、淫乱に負けてしまい、信仰が完全に放電しちゃって、その結果、彼はのちに厳しい代価を受けるようになる。

このように、信仰は、この世のこと、特に罪や悪と触れると、放電が激しくなる。それでは、どのようにすれば放電を防ぎ、充電した忠実なクリスチャン生活を送ることができるかを教えている。もちろん、放電を防ぎ、充電をこまめにすることである。

家内と私は充電で全く違うタイプである。皆さんも家に何個か充電器があると思う。大体5-6個はあるのではないか。家内はいつも時間さえあればまじめに充電をしておく。私はそれができず、一回充電して放電するようになり、それから電話がつながらなかったりする。バタバタまた充電する。信仰においても、こまめに充電しておけば問題はないのに、日頃の充電ができず、いつも信仰放電の状態で生きる人が多い。その状態では、恵みも愛もなく本当にドライな生活である。

そこで、きょうのみことばには、その無駄な放電を防止し、信仰を充電する方法について話す。

①ローマ12:1節:霊的な礼拝に励むことで信仰は充電する
体が集まるのは、こういう教会のような肉的な礼拝である。そこで、本当の礼拝は自分を神様の喜ばれることにささげるところまでなることが、霊的で真の意味での霊的な礼拝である。神様に受け入れられるきよい生きた供え物となっているが、もともと供え物は死んだものである。棚の上に置かれた供え物が動いたりして逃げたりするとそれはよくない。だから必ず殺して供え物とする。私たち人間は体を殺すことができないので、生きた供え物と話す。ただ、生きてはいても供え物が自分勝手に動いたり逃げたりしてはならない。あくまでも神様に受け入れられるように自我を殺し、神様に従って生きることが必要である。これこそ真の礼拝、霊的な礼拝である。体が集まる礼拝も大事であるが、それを通して霊的な礼拝まで進むいうになることである。もちろん、家で一人ですることも礼拝の一つであるが、このように一緒に集まる肉的な礼拝が、少しずつ霊的な礼拝にまでなっていけば最高である。礼拝を通して、自分の体を、心を神様が喜ばれるところにしっかりささげることが必要である。礼拝をいい加減にしてはならない。こういう礼拝さえしない人が、他のことをよくするとは思えない。どんなことがあっても礼拝に励みましょう。

②ローマ12:2節:この世に調子を合わせず、神様の御心に調子を合わせることで、信仰は充電する。
神に調子を合わせるか、世に調子を合わせるか。それによって、充電するか、放電しまくりかになる。この世の人々の生き方、欲、罪や悪に合わせていけば必ず、放電は激しくなる。いくら充電しようとしても充電が間に合わない。なので、できるだけ放電を防ぎ、充電に回るためには神様の喜ばれる生き方に励むことである。しかし、信仰生活をすると、最初は良かったけど、時間が経つに連れて必ずずれていくのである。つまり、最初は神様に合わせて生きていったが、時間と共にこの世に付いていくようになり、だんだん神様から離れていく。

●信仰の道と世の道
世の道は下り坂であり、自然とほっとけば、ものは下り坂に入り転んで滑っていく。その最後は滅びの地獄である。
しかし、信仰の道は上り坂のようであり、自然には上り坂へものが転んでいくことはない。もちろん、その最後は天国である。
自然では信仰は下り坂へ転んで行くようになる。エンジンかけなくても自然と転んでいく。でも上り坂へ上っていくためには、努力やエネルギーが必要である。この前、私が自然の法則の一つとして、エントロピー増加の法則があると話していた。それは、この世のすべては、自然では無秩序の方向に流れるということである。反対を言うと、無秩序から秩序に流れを変えるためには、努力やエネルギーが必要であるという意味である。皆さんの家を掃除しないでおけば、必ず自然に散らかる。でも片付けをしようとすると、エネルギーが必要である。だから怠けのものは掃除をしないで自然体にいるので散らかる。信仰も同じである。

ある日曜学校で牧師先生が子供たちに質問をした。皆さん、どうすれば天国に行けますか。子供たちは答えた。ある人は、神様の話を聞く、いいことをする、イエス様を信じるなど、いろいろと出た。今度は、皆さん地獄に行くためにはどうすればよいと思うと聞いた。すると、悪いことをする、罪を犯す、教会にこない、など色々出た。どころで、最後に一人の子供が答えた。先生、”何もしなければ地獄に行きます”と答えた。子供とは言えない、すごい答えだった。たしかに、何もしないで自然体でいれば、人間は自然と地獄に行くようになる。皆さんが、この世に生まれて、神様に対し何のアクションも起さず、何もしないで自然体で皆さんがしたいこと、欲に従って生きていけば、見事に地獄に行くようになる。何もしなくてよい。悪魔はそうささやいている。あなたは一生の間、何もしないであなたが好きなことを自由にすること、それが最高の生き方であるとささやく。しかしその結果、滅びの地獄は100%自分のものとなる。

③信仰はみ言葉や祈りによって充電(ローマ10:17) 
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。


信仰は祈りやみことばによって充電される。時間があれば、こまめにみことば、祈りに励むことである。長くなくても大丈夫。

④交わりによって充電する(伝道者の書4:9-10)
9ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。
10どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。


私たちは、上の神様とみことばや祈りを通して交わるが、しかし横の兄弟や姉妹などのクリスチャンとの交わりを通してももっと信仰が充電される。縦方向や横方向のつながりがしっかりできれば、充電は切れることなく続くようになる。

今年、皆さんはどのように生きましたか。放電ばかりではなかったですか。こまめに充電を行ってきましたか。充電もしないのに、激しい放電が予想されるこの世に密着してすべてを放電し、信仰や愛、恵みを失って世を生きてきてはいませんか。放電しまくりだったかもしれない。またあまりよくなかったかもしれない。それほど充電ができていなかったかもしれない。しかし失敗したならば、来年はもっと信仰の充電をこまめにするようにすればよい。そういう人生や計画をしてみよう。きっと素晴らしい信仰充満の一年となるだろう。来年1月12日は、新年会で、その日には計画も立てたりします。何も計画しないで、それで何もしてないという人生はよくない。もちろろん、計画があまりできない時もある。しかし、10個立てて1個しかできなくてもそれは成長にはつながる。何も計画立てずに何もしないことよりははるかによい。

去年の自分の生活を振り返り、新年には信仰充電の一年として生きるようにしましょう。最後に祈って終わりましょう。

結びの祈り
天の神様、きょうは去年一年を振り返り、どのような生き方をしたか、考えてみました。人によっては放電しまくり、充電をまじめに行っていない人もいれば、人によってはまじめに充電を行い、その力で潤いも平安も、またクリスチャンとしての働きもできた人もいます。どうか、こういう経験を踏まえ、来年は信仰の充電と放電のバランスを取ることができますように。むしろ充電にこまめに力を入れる一年とすることができますように祈ります。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン

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