神に仕えるのはむなしいのではないか

<関連聖書箇所>
マラキ3:13「あなたがたはわたしにかたくななことを言う。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「私たちはあなたに対して、何を言いましたか。」
14あなたがたは言う。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。
15今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。」と。

16そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。
17「彼らは、わたしのものとなる。―万軍の主は仰せられる。―わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
18あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。


<説教>
1.神を否定する時代
今の時代は、見えない神、見えない何かを否定する時代である。
この世の多くの人は、見えないからという理由で神を認めないでいる。
科学時代を生きる、非科学的な人たちである。ひたすら目に見える何かを求める時代である。物質文明、視覚文化、堕落文化が強い時代である。

見えない=存在しない=大したものではない

しかし、こういう考え方は一番ノンセンスである。自分の中にも、心のように見えないことがいろいろあるのに。神はそういう人に向かって以下のように話す。

詩編14:1 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。

もちろん、見えないから信仰が簡単ではないし、そのため、キリスト教の信仰が広まらない、信仰が定着しにくい、子供たちに信仰継承が難しいと思われる。

それで、人たちは神はいないと思い、自分勝手にする。また。苦労して信仰を続けることにまったく意味を持たない。なんでそんなことをするのか。日曜に礼拝に行ったり、神様のことを考え自分を自制したり、情欲を抑えたりすることが、何の益になるかと抵抗する。高慢になって高ぶり、神に敵対する。私たちも、その影響を受けると、疑いができたりして、果たして私が正しいだろうかと、考えてしまう。信仰の薄い人は信仰から遠ざかったりもする。

マラキ3:14あなたがたは言う。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。15今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。」と。


視覚の虚しさ
多くの人は神の存在を視覚に依存しようとする。でもこの世では、視覚だけでは生きていけない。見れないものを、聴覚、味覚で、触覚で、または臭覚でわかるようにしている。またそれもできないことがある。でも、これだけでは、深くはわからないことが多い。もっと深い、複雑なことは、知覚を用いていくことである。それで、神様は聖書を残して下さった。私たちは聖書を用いて、聴覚や知覚を用いれば、いくらでも神がわかる。のちに神はキリストを通してご自身を見せてくださった。神様が存在しなければできない証拠が聖書に多く書かれている。


確かに、「神はどこにいるの」と聞かれたり、攻撃されると一番心が痛いし、戸惑う。
もし、彼らが「神を見せてくれれば」と言われると、大変。

みなさん、こういう時には見せることはできないが、わかる方法はいくらでもあるんだと話し、逆にあなたが、「神がいない」という証拠を見せてくださいと話してみれば、彼らよりは私達がもっと優位に話を進めることができる。私たちはそれらをたくさん、考えたりしたからでしょう。
とにかく、こういう質問や攻撃に対する聖書の人物の反応を見てみよう。

●詩編には同じ苦しみを話す。
詩編42:3私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。
詩編42:5わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。


●ミカ預言者も同じ話をする。
ミカ7:10 それで、私に向かい、「あなたの神、主は、どこにいるのか。」と言った私の敵は、これを見て恥に包まれる。私もこの目で敵をながめる。今、敵は道の泥のように踏みにじられる。

●ヘブル11章には、いろんあ信仰者の苦しみが書かれている。
ヘブル11:36また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、
37また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、
38―この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。―荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。

2.神を信じない彼らは、話す
マラキ3:14あなたがたは言う。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。
マラキ3:15今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。」と。


神の悪や罪に対する処罰が即座で行われないので、だから、多くの人が神がに敵対したり、神をあざけたり、神をふざけるようになっている。それでも、神は彼らを即座では罰しない。それは、神ができないからではなく、愛と忍耐と赦しである。

神はこういう人にも黙っておられるので、彼らの敵対は終わらない。
伝道者の書8:11 悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。

Ⅰテモテ5:24 ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。
多くの人が神がいないと、高慢になっている。


数々の悪を繰り返す。少しの恐れもないまま。


本当に神がいないならば、また死後の裁きがないならば、彼らのほうが幸せな者で、信じる人たちは一番可哀そうな人である。果たしてそうなのか。
Ⅰコリント15:19もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

3.しかしながら、神様は明確に警告する。
16そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。
17「彼らは、わたしのものとなる。―万軍の主は仰せられる。―わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
18あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。


多くの信じない人たちの期待にように、最後まで何もなく終わることはない。彼らが正しかったという結末にはならない。以下で神は明確に話している。

死後には裁きが受けることが決まっている。

ヘブル9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

裁きの座に立った時の様子が以下に書かれている。二つの書が開かれる。一つは、私たちの行いやつぶさに記録された本、もう一つの本は私たち信じる者の名前が記されているいのちの書である。

ヨハネ黙示録20:12そして,数々の書物が開かれた.また,別の一つの書物も開かれたが,それは,いのちの書であった.死んだ人々は,これらの書物に書きしるされているところに従って,自分の行ないに応じてさばかれた.15いのちの書に名のしるされていない者はみな,この火の池に投げ込まれた.

16、17世紀の日本におけるキリスタン迫害、当時は目に見える迫害であるが、今は目に見えないが、あの時と同じくらいの不信仰的な環境がある。つまり、外部からの迫害ではなく、内面の敵が多い。益々信仰を持つのが難しくなる時代である。本当に心を込めて神様にくっついていかないと、信仰を簡単に失いやすい時代である。周りの99%の人達、この社会のシステム全部が不信仰に合わせて造られている。その上堕落と情欲文化が強すぎて罪に走りやすく、さらに悪魔の執拗な攻撃もあるので、いい加減に信仰生活をすると決めた人は、なかなかついていけない。

なので、私たちは一人だけでは信仰者として生きていくのに十分ではない。交わり、教会礼拝、自分なりの霊的な活動を通して、こういう厳しい時代を乗り越ええていかなければならない。選ばれた者としての自負心と喜びをもって、主に仕えていきましょう。


<結びの祈り>
天の父なる神様、この堕落した時代、神を否定したり敵対する時代です。それがまるで知性の象徴であるかのように高ぶる人に覆われています。神を話すと、愚かな人のように思われる時代でもあります。こういうもどかしい時代に、クリスチャンである私たちが、いったいどのように生きるべきでしょうか。もっと自負心をもって、喜びをもって、不信の時代を生き抜くことができるように私たちを諭してください。どんな攻撃やあざけりがあっても、自分の信仰を堅く保っていけますように。そして自分だけではなく、隣人にもしっかり信仰の強さやすばらしさを示すことができる人となりますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン

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