真理と自由の終着点(ヨハネ8:31-45)

<ヨハネ8>
31イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。

32あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
33彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」
34イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。
35奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。
36ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。
37わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。
38わたしは父のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています。」
39彼らはイエスに答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。
40ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。
41あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」すると、彼らは言った。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」
42イエスは言われた。「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。
43あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。
44あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。
45しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。

<本文>
きょうのこの話は、イエス様とユダヤ人との対話である。
彼らにイエス様は、「自由となりなさい」と言われた。
つまり、あなた方は自由ではないので自由人となる必要があるという話である。
そのため、イエスの言葉に目を向け、そこにあなたをゆだねなさいという話である。

ユダヤ人だけではなく、ほとんどの信じない方は、私は自由だと思い込んでいるのが現状である。
彼らは、俺はすでに自由ではないのか、私は自由になっていると強く反発する。

ここでイエス様が言う自由とは、何なのか考えてみたい。
普通の人は、肉的自由が自由だと思う。
しかし、イエス様が言う自由は体の自由ではなく、霊的な自由を意味する。
人間の内面の、人間という存在そのものが持つべき真の自由を意味する。

つまり人間は原始的な束縛や不自由のなかにいるという話である。

そして、誰もがこの原始的な不自由と束縛から解放されなければならないという意味である。
この霊的な自由を得ない限り、人間そのものはまともな自由を得たとは言えない。
この霊的な自由こそ死後まで続く真の自由である。
この自由を得るべきだとユダヤ人に話すのに、彼らは俺らはすでに自由になれたと強く反抗する。

これが、肉的な自由と霊的自由の錯覚である。

イエス様は続けて話す。あなたがたは、罪の奴隷、悪魔の奴隷、また死の奴隷だと。

3つの奴隷:罪(34節)、欲の奴隷(44節)、悪魔の奴隷(44節)

これらの証拠は、私が願ってもないのに、ついつい罪を犯してしまう。ついつい、欲に従って生きる。何となく死を遠ざける。神様より悪魔の声に走る。このようなことは、私たちが罪、欲、死の奴隷という証拠でもある。
人間は、生まれからこの3つの奴隷となっている。

きょうは、この中でも死のことについて、中点的に考えてみたい。
若い人たちは、死のことには漠然とした恐れを感じているが、しかし死を向き合うことはしない。
避ける。
最近は死に直面する機会が少ない。
人が亡くなっても、その死を見る機会があまりない。

しかし、人間が人間として生きるためには、死へのしっかりとした感覚を持つべきである。
死を知らないまま、いくらよい話をしてもそれはなかなか話にならない。
死を論じないで、生きることを論じてはならない。

私たちに人間にとって、一番確実なことは、死ぬことである。
しかし、若者は、その死を避けてしまう。
自分には関係ないと思う。
しかし、あなたが死に対してどれほど、現実的に感じているかが、真剣に生きる力となる。

たしかに、人間は、自分の始点と終点の2つの点がしっかりわかれば、その2つの点の間は、簡単に線を引ける。
聖書は、この2つに対して明確に教えている。
人間はこの2つの座標の設定をする必要がある。
即ち、神から出てきて、神に帰るということである。

メメント モリ:ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」という意味である。

この死への体験からクリスチャン、有名な指導者となった一人を紹介する。
アメリカのチャルス フィニーであり、19世紀アメリカの第2次大覚醒運動のリーダーである。
彼は法律を学び、28歳で弁護士となる。
彼は法律を学ぶ中で、多くの法律が聖書とつながっていることに気づく。
それで、少し聖書に興味を持つ。
そのある日、彼は心の中で神の声(のような)を聞いた。
「今からあなたは何をするの?」、”弁護士として頑張ります”、「その後は」、”お金を儲けます”、「その後は」、”結婚して幸せに過ごします”、「その後は」、”・・・・”、「その後は」、”・・・”

神様からの「その後は」という問いに段々答えられなくなってしまった。
そこで彼は、死ぬことに答えたいということで、死に興味を持ち、聖書に触れ、神に祈り始めた。
聖書を通して、それに対する答えを得ることができた。

それから彼は、信仰者として新しく生まれた。
ちょうどその時、自分が引き受けていた訴訟の件の依頼人に会い、今引き受けている訴訟の件はこれ以上続けることができませんと断った。もちろん、後になってその問題はこのことによって自然と最高の解決となったようである。

彼は、”今からは私は、この世の人の弁護ではなく、神のために弁護士となります。
福音と神のことを人々に伝える人となります。”
それから彼は、弁護士を捨てて、神学に入り、牧師となり、アメリカの霊的なリバイバルを引き起こした。
彼によって50万人以上の人が救われたと言われている。

死ほど素晴らしい先生は人間には存在しない。
一番人間が素直になるのは、死の前である。

伝道者の書7:1 良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。2 祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。3 悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。4 知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。

このように、祝宴より、喪中の家、笑いよりは悲しみのほうが、もっと人間を知恵ある者とする。
しかし、日本のようにお笑いが盛んなところもないほど、お笑いのブームである。
「死んだら意味がないから、それまでは存分に楽しもう」。
悲しんではならない。笑いなさいの一色である。

最近、韓国でも死への思いが薄い人のため、死を少しでも身近に感じようと、臨死体験を開催するところが多い。
大体、棺に入る体験、遺言書、墓石文などを書いてみるなどである。

あなたはどこでどういう形で息を引き取りたいのか。
あなたの葬儀はどのようにしたいのか。
こういうことを考えることによって、死をありのまま体験するということである。
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最近、私たち夫婦はお墓のことでいくつかの霊園の見学をしている。
そこでもたくさん、学ぶ。
無言のお墓はいろんなことを教えてくれる。

キリスト教での死は天国への引っ越しである。
死を、イエス様は「寝ている」と表現した。
寝て、覚めたら天国となる。
牧師の私は、天国へ引っ越しする人の手伝いをする人である。
私たちは、やられる死ではなく、迎える死を経験したい。

キリストの十字架の死によって罪やその刑罰から赦され、復活によって死から解放された。
人間の一番厄介な、この二つの問題が、真理であるキリストによって解決されるのである。
それでは、このように真理にふれ、自由を得た人は、どうなるべきか。

(罪・悪・欲・死)奴隷から自由を得た人は、ここで終わるのではなく、さらに変化するようになる。
それが、進んで僕になることである。

自由を得たのに、自分だけの自由で終わるのは、不完全である。
神から自由を得たら、今度は自分から進んで神様、福音、または人のための僕へと変化することである。
自分だけのエゴの自由はよくない。

今度は、人から強制されてからではなく、自分から進んで神と人の僕になることである。
強制的な奴隷は不幸せであるが、自ら僕になることは最高の喜びをもたらす。

イエス様は、この私に自由を与えるために、十字架にて死なれた。
自由とは、罪を犯さないようにするというだけではなく、罪による裁きと滅びの国という地獄からの解放。
これが罪がもっている力である。

このようにして自由を得た私たちは、真理のための道具としてなる。

ローマ6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

上記のみことばは、義の僕として生きることを意味する。

また以下では、イエスのために、人に仕える僕となる書かれている。
Ⅱコリント4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。

イエス様も、神であったのに、自ら低くなり、人間となり、十字架にかかり、死なれた。
最高の御座にいた方が、最低の位置、人間となり、それも十字架を背負うまで低くなった。
つまり人間の救い、罪の赦しのために僕となったのである。
それで、人間に救いがもたらされた。
ピリピ2:6キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

私たちも、このように真理であるイエス様に触れ、自由を得たならば、それに満足せず、再び、今度は自分から進んで福音のため、イエスのため、人の救いのための僕となる必要がある。
それこぞが、最高の幸せ、最高の喜びである。

<結びの祈り>
天の父なる神様! まずは真理に触れることができて本当に感謝します。そしてキリストにより救いと自由を得ることができましたことを感謝します。しかし、この自由を自分のため、または肉のためではなく、義のため、人のため、福音のために用いることができますように。それによって自由の喜びがもっと広がっていきますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン

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