神様に用いられる喜び(Ⅰコリント1:26-31)

●私たちが死に天国に行った時に、どういうことで神に褒められるだろうか。

①神のために仕えたこと(ミナ、タラントの例え)  ②人のために仕えたこと(マタイ25:32-46)

※人間は基本的には、自分だけのために自分に仕えて終わるようになる。

●旧約での例)オテニエル、エフデ、シャムガル(士師記3:8-31)
・オテニエル(名前の意味;神の力)
ヨシュアと共にしたガレブの甥、信仰の勇士(アラムの王クシャン・リシュアタイムから救い出す)
彼は名前の由来のことで、人々に苦しめられた可能性がある。お前が神の力ならば、これもしてごらん、あれもしてごらん。これもあれもできないのに、神の力なんてと、いじめられたかも。しかし、彼はその弱点で苦しめられたが、のちにその名前の通りに、大きな力を発揮し、イスラエルをアラムから救い出した。

・エフデ:左利きの人(モアブの王、エゲロンから救い出す)
モアブの王、エゲロンをやっつけるために用いられた。昔、左利きは障碍者扱いにされた。みんなの笑いものであった。そういう彼の左利きは、エゲロン王と出会ったときに、力を発揮していた。大体は右利きなので、エゲロン王も右の手の動きに注意を払うが、彼は左利きだったので、エゲロンと一対一となったときに、まったく右の手のことで気にされることなく、会話をすることができ、勇断した王を左の手で打つことができた。

・シャムガル:農夫で異邦人である可能性(牛の突き棒でペリシテ人六百人を打った)
彼は名前から異邦人である可能性が高い。その上、農夫であったはず。しかし、いつも無視されていた彼が、ペリシテ人との戦いで力を発揮した。自分の農業で使っていたつき棒で、ペリシテ人600人を殺せた。

●デボラ(士師記4:3,4):カナンの王ヤビンの手から救い出す(手の戦車900両に打ち勝つ)
カナンの一番強いヤビン王との戦争に、男でもないこの女性が選ばれた。相手は、鉄の戦車、900両、今の核兵器のような強い人と戦って勝利した。肉体の力ではない。神がなさるからである。

●ダビデの投げ石、モーセの杖、ルツ、ラハブ
ダビデは、自分が羊を飼う時にいつも使っていた石ころでゴリアッテを打った。どこにもある平凡な石が、神様ににぎられたダビデの手にあると、すごい力を発揮した。いつもの石ころでも変わる。モーセの杖も、メディアンにいるとき、羊飼いの時に使った杖と似ている。その杖が、神様に握られ、神の手に置かれた時に、紅海が分かれる奇跡をもたらした。

●ラハブ`(ヨシュア2章、偵察に行ったイスラエルの人々を隠し安全に守った):ボアズ(ダビデの曾祖父)のお母さんがラハブ、ボアズの妻がルツ

ラハブは、遊女である。しかし、彼女は信仰によって、イスラエルの12人の偵察の人を守ってあげることにより、救われ、のちにイエス様の直系の祖先となった。遊女がダビデ、イエス様の先祖となった。ありえない。ラハブは、ダビデ王の曾祖母である。このラハブの子が、ボアーズであり、この人はルツの主人となった。つまり、異邦人で遊女のラハブはもちろん、モアブの軽蔑されたルツも、イエス様の祖先となった。

サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、 エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、
マタイによる福音書 1:5‐6


●ルカ19章
・ザアカイ:背が低く、取税人で一番嫌われていた。今の暴力団以上。しかいs、背が低かったから、彼は木に上るようになり、そこで目立ってイエス様に出会えた。

●私たちの弱さ、傷が、大体強さや使命に変わることが多い。
Ⅱコリント12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

・ある意味、弱点も、神からのプレゼント、賜物。パウロは、上の聖句でそれを悟ったという。
・ときには、神様は罪も用いる。もちろん、罪を犯してよいという意味ではない。
・神は弱い者を使うことを喜ぶ。自分でやるぞ、ではなく、用いられることが大事である。自分でやるぞ、という人は多いし、立派な人も多いが、神はそういう人を用いない。むしろ、弱くて、自分ではできないと思う人々を用いる。その彼は神様の力にゆだねてするようになるからである。

・神様は、どんな道具もうまく使える。
 仕事のできない人の特徴は、道具のせいにする。これがよくないから、あれがよくないからという。

・要は、その道具が神様の近く、神様の手にあるかどうかである。


●用いられるために私たちは
・神に用いられたい心
・自分を神様の手にあけ渡すことである。
・ろばの子:イエス様に用いられっるためには、解いてイエス様、神様にもってこなければならない。
 大体、人間は、①自分に縛られているか、 ②他人に縛られている。しかし、少数ですが、ある人は③神に縛られている。

・私たちは神のために、仕えれば仕えるほど、どんどん大きく用いられる。
まったく、仕えることをしない人は、どんどん貧しくなる

・この前ミナの例え話にもあった。ある人は、Ⅰミナで10ミナを残したが、ある人は全くそれができなかった。それで、王は何も増やせなかった人からミナを奪って、10ミナ残した人にあげなさいと言われた。与えられた賜物を使う人に神はどんどん祝福する。賜物を使うかどうかで、人の働きは大きく変わる。私ならば、可哀そうだから一ミナを奪わないほうがいいのではないかと思う。10ミナ持っている人は十分あるから、あげなくてもよいのではと思う。しかし、それは違う。使う人はもっと多くなるようになっていく。だから、ある教会や人は、すごく大きく用いられるが、あるところは全くできない。極端的になる。たまには、大きく用いられる人を見て、羨ましく思ったり、たまには嫉妬をする。でも、それはよくない。神様に用いられる人はどんどん用いられる仕組みとなっているからである。

・以下の聖句には、神の国の門番でもいいから、そこで住みたいという。つまり、門番で一日でも仕えればいいという話である。
贅沢に生きる、邸宅で生きる何千年より、神の宮で門番として一日でも仕えることの喜びである。

詩篇84:10まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。

・フランス 17世紀 修道士のローレンスという人は、一生厨房で仕えた。いつも厨房でにこにこしながら、感謝をもって仕事をした。目立たない仕事に従事した。神はこういうことを喜ぶ。必ず神は見てくださる。


私たちは、何かに縛られている。そういう自分を解いて、神に明け渡す。神は私の弱さや弱点を用いて大きなことをなさる。みんなが神に用いられる人となるよう祈ります。主の宮で仕える一日でもよいから、門番でも仕える喜びを知りたい。

祈って終わりましょう。

<結びの祈り>
天の父なる神様、きょうは神に用いられることの大切さやその喜びについて学びました。私たちは自分に縛られて、自分だけのために仕え、人生を終わるような存在です。しかし、もっと永遠に価値あるのが何なのか、もっと神に喜ばれるのが何なのかを知ることができました。神に用いられたい心をお与えください。また、自分自身に縛られている自分をほどく勇気や信仰を与えてください。そして神に大いに用いられる人生となりますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン

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