名馬の行動ぶり、信仰者の生き方(ヘブル10:23-31)

23約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
24また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
25ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
26もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
27ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
28だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
29まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
30私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。
31生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。


<本論>
1.罪に対する二つの極端な反応

⑴罪への赦しの確信がなく苦しむ。罪への異常反応。
神の救いを得たものの、赦しの確信が得られず、苦しむ。それで、神の恐ろしい裁きを感じ、恐れる。これが先週の話である。

ヘブル10:17「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」

・思い出さないとは、キリストの十字架の贖いは完璧であるという意味である。
・無駄なことは、神が覚えない罪を自分が掘り起こして悩むこと

⑵もう一つは、罪を楽しみ、十字架のことを軽蔑するような態度。
きょうの話はこういう人の話である。罪を何とも思わない。この恐ろしさに対して教える。
 もちろん、罪をしっかり認識するほうが救われる可能性が高い。そこからキリスト教に行く人も多い。

2.交わりと罪の関係
それから急に交わりの必要性を強調する。というのは、交わりと罪は深い関係がある。罪にかかわる人の一番目の特徴は、交わりに行きたくない。神という話、罪という話をする交わりや礼拝が嫌いになる。

こういう甘い罪の認識を持つ人は、24-25節のように交わりから遠ざかる。自分は罪を何ともモわないのに、説教では罪を言うから聞きたくない。

ヘブル10:24また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
25ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。


※堕落の過程(主人公クリスチャンと希望さんの対話:天路歴程)
●31「瞬間」と「堕落」などの証し
「クリスチャン兄弟、もしかしたら「瞬間(Temporary)」という人を知っていますか?」
「知っています。「堕落」という町に住んでいた人ですね。その人の隣に住んでいた「堕落(Turnback)」さんもよく知っています。「堕落(Turnback)」氏は、「自己救い(Self Save)」という人と付き合ってから、考えが変わった。

堕落の過程(天路歴程)
・第一に、神と死、そして将来来る裁きの記憶を捨てます。
・第二に、彼らは祈り、罪を悔い改める機会を怠っています。
・第三に、彼らは信仰のよいクリスチャンとの交わりをしません。
・第四に、説教を聞いたり、聖書を読む集会などに参加していません。
・第五に、彼らは敬虔な人々のうわさを聞き、自分が見たいくつかの弱点を口実に信仰を辞めるようになる。
・第六に、世俗的であり、淫乱な話をする人々と付き合うようになります。
・第七に、彼らは純粋な人が間違ったことをすると、非常に喜び、自分の悪さを続ける。
・第八に、小さな罪はなんとも思わない。結果、再び悲惨な罪に陥って永遠に滅ぼされてしまう。

彼らは罪を正当化するか、別にどうでもよい、または罪を軽んじる仲間が欲しい。仲間が出てくると、そうでしょう。やっぱり、罪に対して余計に敏感だったのではないかと自分を慰め、すぐその群れについていくようになる。

3.罪への不信仰的な反応の恐ろしさ(ハマルタノントン:故意に罪を犯し続ける)
26もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。

罪への恐れがない。むしろ楽しむ。罪悪感もあまりない。反対に、罪への赦しへの格闘をしたり、もがきをしたりすることは、罪を恐れ、嫌がるという意味である。それは神を愛するという意味である。罪をきらうからそうなる。今になって私も考えてみると、信じない時、あるいは信仰が幼かった時の罪などを思い出すと、危ないと思う。

一人の力で裁きを諸々受けなければならない(26節;メッセージ聖書)。

27ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
罪の恐ろしさが書かれている。逃れる道がない。変化の可能性がないからである。罪を恐れる人は神に帰る可能性がある。自分が犯した罪が焚火となって自分を苦しめる時が来る。

28だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
29まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
30私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。
31生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。


モーセという人間が出した律法も犯すと、厳しい死刑があったのに。まして、モーセとは比較できないキリストの十字架を軽蔑し、踏みつけ(侮る;唾をかけるような行動)人への裁きはどれほど恐ろしいだろうか。

必ず、罪の復讐(裁き・刑罰)がある。狩り用の犬の話。その犬はターゲットをかみ殺してやっと戦いは終わる。今は罪が楽しいかもしれないが、のちにそれは復讐に訪れる。その復讐から守ってくれるのが、キリストの十字架、救いである。

30節:メッセージ聖書には、神はどういうことも素通することはない。

4.自然な罪への意識の変化
罪への無感覚(罪を楽しむ)→罪への恐れ→罪への赦し→罪を嫌う→神の愛と恵みに感謝

Ⅰヨハネ4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

恐れのギリシャ語は、Phobos、恐れる、敬う、尊敬する。奴隷がもっているような恐れとは違う。

愛は恐れを追い出し、大胆さを与えてくれる。
恐れは、神様に出会うためのきっかけにはなる。その恐れが、後に尊敬に変わり、大胆さに変わる。

「アラビア地域での名馬の訓練」
笛の声にある程度反応する馬を集める。今度は檻に入れて三日間何も与えず苦しめる。その後は、馬をオアシスが近所にある砂漠に連れ出す。すろと、馬たちは全部オアシスに向かって走り出す。その時に、訓練師が笛を吹く。すると、3つの反応が出る。1部類は、笛を聞かないふりをしてそのままオアシスに走っていき水を飲む。もう1部類は、そのままとどまる。最後の部類は、訓練師に戻ってくる。これで、名馬を選定しさらに訓練を続ける(キムジャンファン引用)。

<結びの祈り>
天の父なる神様! きょうは罪と交わりの関係について、またどのようにして人が堕落していくのかも知りました。さらに、罪への無感覚、つまり故意に罪を犯し続けることの恐ろしさも知るようになりました。どうが、罪への異常反応も良くないが、罪への無感覚による故意的な繰り返しこそ、真に恐ろしいことであることを知りました。自分の罪や欲に対し、名馬のように歯止めをかけ、罪を悔い改め、イエス様に従えますように。そして信仰の喜びと恵みを経験する人となりますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン


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