故郷を忘れた人々(ヘブル11:13-16);旅人の精神で生きるとは

<関連聖句>
13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。



<説教>
この故郷を忘れた人々ということには、二つの意味がある。1つは、この世の自分の生まれ故郷を忘れ、執着せずに信仰によって生きるのか、それとも天の永遠の故郷を忘れて、この世に執着して生きるかのどちらかである。皆さんは、そのどちらかであるか、説教を聞きながら考えてみてください。つまり、あなたはどちらを故郷を忘却して生きているのですか。

1)旅人として生きる(13節)

①クリスチャンの別の名前は、この「世の旅人」である。
本当に素晴らしいクリスチャンの生き方は、この旅人の精神に沿っていきるかどうかである。この世のため生きるかのような生き方、この世にすべての希望を置いてそこに安住して生きる、世の主人のような生き方とは違う。

それで、天路歴程では、旅人、PILGRIMという。巡礼者の意味である。信仰者とは、信仰の巡礼をする人である。つまり、いつか滅びるこの世を離れ、永遠のシオン城、天の都を目指して生きることであり、そこまで信仰をもって歩んでいくという意味である。それが私たちすべてのクリスチャンに求められる精神である。

ジョン・バニヤンの天路歴程の中でも、巡礼の途中で、ある人は帰る、ある人はとまる、ある人は変質する、ある人はよくないことをするなど、さまざまある。しかし、信仰者はみんな、天の都を目指して巡礼し続ける。

でも、実際多くのクリスチャンは、巡礼をやめるか、世にこびりついて生きる。この世の欲に従って生きるゆえに、信仰の巡礼をやめるようになった。

実際、天路歴程の主人公自体も、巡礼の途中、堕落の町、アダムの村へ誘われたことがある。

堕落を極めたこの世は、必ず滅びる。なので、その世を出なければならないと、天路歴程の主人公と伝道者は対話する。そして、主人公は、いよいよ巡礼に出発する。この世は、沈没する舟である。だからその不信仰の船から、信仰の舟へ乗換える必要がある。

②実際、アブラハムから始まって、イスラエル人の生き方が、旅人そのものである。
アブラハム、イサク、ヤコブは、所有地もなく、異邦人として、幕屋、テントに住んでいた。彼が約60年間、カナンに住んだが、唯一彼は自分の妻を葬るため、エルサレム下のヘブロンでマクペア洞穴を買っただけである。それは私は永遠にこの世では、旅人としていきます、また墓地をしっかり設けたのは、これから永遠にここに住みますというしるしである。死んだら、私もここに入れなさいとう意味である。ヤコブの人生もそうである。彼は、若い時にエサウとの問題で、お母さんの実家のあるハランに逃げて、そこで20年程度旅人として生きた。それから戻ってきたが、今度は飢饉で、ヨセフのいるエジプトに行けねばならなかった。そして、そこで死んだが、遺体はヘブロンのお墓に入れてもらった。イスラエル人は、エジプトで400年の奴隷生活、40年の荒野での生活、それから、今度はまた、アシリヤにより北イスラエルは滅ぼされ(BC722)、その地に連れていかれ、しばらくして南イスラエルもバビロンに滅ぼされ(BC586)、そこに連れていかれ、70年間捕虜生活をした。その時からイスラエル人は全世界に散らばって23000年間放浪生活をした。そして、やっと1948年今の地域に戻ってきてイスラエルを2300年ぶりに再建した。彼らはこういう旅人の生活をしたことで、むしろ神を忘れずに生きる信仰の力が身に付いた。

・ヘブル:アブラハムたちへの当時のあだ名:違うところから来た人、または川を渡ってきた人

・モーセもエジプトからメディアンに逃げて、旅人の生活をして、野生を養った。

③旅人して生きるとは、とてもつらい。
異邦人である、異邦人扱い、いじめられやすい、権利はあまりない。マイノリティで生きる。ある意味、いつまでも弱者として生きる。疎外されたり、自国民のような扱いを受けにくい。仲間はずれのような生活をするということである。

つまり、私たちクリスチャンがこの世に生きるのは、そういう意味がある。この世に生きるとはいえ、この世に安住して、普通のこの世の人たちのように、この世に命を懸けて生きるのではなく、その彼らとは違う、仲間外れのような生き方をする必要がある。そこに犠牲が必要であり、信仰が必要である。

④しかし、人間は目の前の現実にすぐ圧倒されてしまう。遠いところにある見えないものよりも、目の前の現実のことに目を向けてしまう存在である。

旅人として生きるとは、不便である。楽ではない。でも、そこには価値がある。体という幕屋も、いつか崩れる。この世は、霧のように過ぎていく。果て無い世であり、いつか私たちはあの世に去っていく。その準備は大事である。

ルカの福音12章、ある金持ちの話が出る。
17そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
18そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
19そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
20しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
21自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」


個の金持ちは、世では富んでいたが、神に対しては貧しい人であった。世の倉を満たすことはしても、天の蔵には何も蓄えなかった。世の倉を怖し、それを天の倉に蓄えることが必要であった。

この世で金持ちとして生まれるのは、悪いことではないが、世の金持ちのまま死ぬのはよくない。


2)この世の故郷に帰らなかった(15節)
⑤アブラハムにとって、自分の肉の故郷に帰ることは、信仰を捨てることであった。
偶像の町に帰るとは、信仰をあきらめることである。それで、彼はいくらでも帰ることができるとしても、一回もそこに帰ることはしなかった。彼は自分の息子の結婚の時も、自分の故郷に息子の嫁を探してくるように僕に命じた。しかし、いくら何があっても息子を連れて故郷に行ってはならないと、誓わせた。

⑥人間は皆帰巣本能があるが、彼はそれを拒み、天の故郷に帰ることを喜んでいた。

つまり、この世にくっついて生きることをやめた。
Ⅰヨハネ2:15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。16すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

Ⅰペテロ2:11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。


聖書には、世を愛してはならないと書かれている。世の欲に引っ張られて生きてはならないという意味である。

⑦二つのいのち、二つの故郷

私たちクリスチャンには、二つの故郷がある。一つは、肉の故郷、もう一つは霊的な故郷。
つまり、私たちクリスチャンには、二つのいのち、生まれがあるからである。私たちは2回生まれる必要がある。一回は肉親の親から、もう一回は聖霊によってである。ギリシャ語で、聖書にはいのちを、二つに使い分けている。一つは、BIOS(ビオス)、もう一つはZOE(ゾエ)である。BIOSは、肉の命、生物学的命、そこからバイオという生命の意味が来てる。しかし、救われたクリスチャンには、永遠のいのち、ZOEがある。だから、私たちには、体の故郷もあるが、永遠のいのちを受けたもので、永遠の故郷、天国があり、それだけが永遠に続くのである。そこが帰る真の故郷である。

人間は、安住に対する愛着、故郷に対する愛着がある。私たちはいつか、死を迎え、天に引っ越しをしなければならない、霊的な帰巣運命がある。しかし、その時、この世で旅人として生きている人のためには、天の都が待っているが、そうでない人には寂しくなる。

⑧ここまで、アブラハムが我慢できたのは、
16節、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。

3)さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれる(16節)
⑨私たちが、死を迎え、天国に行くと、神は私たちのために、都を用意して待っていると書かれている。
この世の幕屋とは比べるものではない。これをはるか遠くて見て、今を生きる人がクリスチャンである。
私は伝道するときに、たまに⑩引っ越し準備もそろそろしなければならないのでは、というふうに話す。相手に向かってはしないが、一般的な話としてそういう。

⑩引っ越しをするときには、多くのものを捨てていかなければならない。もったいない。私たちが、あの世へ去るときには、すべてを100%捨てていかなければならない。

⑪どうせ、捨てていくならば、生きている間に、それらを天国に先に送る必要がある。つまり、この世でのものをもって、永遠に価値あるものに代えたりして、引っ越し先での生き方を準備する知恵が必要である。

⑫そろそろ今の町、今の家を離れて、引っ越しをする人がすべきことは何だろうか。
それは、今の家に何か新しい物を入れたり、家具を買ったり、投資をする人はいない。
それよりは、新しい家のために、いろんな投資をするはずである。そういう姿勢で、今の世を生きることである。

Omnibus omnia 全ての人のためにすべてのことを与える。あの世には何ももっていかず、すべてを人のために与えるというラテン語。最近亡くなった、韓国のジョン枢機卿という方の左右の銘、墓碑に書かれると言われる。

⑬私は、アブラハムたちが、天の都、自分たちのために、神が設けてくださるだろう天の都を待ち望んでいたと、書かれているのが、印象的であった。あこがれる。普通は、世のことをあこがれて、世にこびりついて生きようとするのに、この世のことを愛しているのに、彼は反対であった。皆さんは、どうですか。目の前の現実、私の手の中にあるものにあこがれますか、それともはるか先の天の都を待ち望み、あこがれていますか。

コロサイ3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

Ⅰペテロ1:17 また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。

⑭結びのことば
私たちは、確かにこの世に足をつけて生きる限り、この世で生きるために働かなければならない。しかしながら、この世にすべてをかけて、この世に希望を置いて、この世での成功、この世への執着をもって生きることではない。むしろ、天の都への憧れをもってそれを待ち望みながら、この世を生きることである。そして、この世を生きながら、神の国とその拡大のために、もっと力を入れる、そんな生活こそが、旅人の精神であり、クリスチャンとしての正しい生き方ではないだろうか。

<結びの祈り>
創造主の神様、きょうもアブラハムの信仰者としての生き方について学びました。彼はいくらでも、旅人としての生活を捨てることもできたし、また故郷に帰ることもできました。しかし、彼はそういうことをせず、一生旅人の精神と行動をもっていきました。それは、彼ははるかに先のことを、今の目の前のことより、大事にし、その見えない、しかし永遠なる天の都を待ち望んで、あこがれていたからです。どうか、私たちにも、目の前の世にあこがれるのではなく、天の都をあこがれ、そのために、今の人生を生きていくことができるようにしてください。通りすぎる世に執着せず、愛することをせず、世の旅人として生きるじんせいとなりますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン

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