イエス様の弟子としてのしるし
1.主を第一に求める者(ルカ14:25~35)
多くの人たちが、イエス・キリストについて行きたいと申し出ました。しかし、彼らは別れの挨拶に行ってきます、父親の葬式に行ってきます、畑に行きますなど、色々な理由で直ちにイエス様についていくことはしませんでした。結局、彼らはイエス様から離れてしまいました。ある意味では、彼らの理由はとても重要であり、人間的にも十分理解できます。自分の父親が死んで葬式に行ったり、最後の別れの挨拶に行ったりするのは、当然なことであるからです。 しかし、イエス様はこういう人たちは弟子にはふさわしくないと言われました。 本当に彼らがイエス様の弟子として生きていくためには、こういう厳しいときにでもイエス様のことを優先すべきです。もし、イエス様が皆を行かせたならば、どうだったでしょう。多分、彼らは帰って来れなかったでしょう。人間の一番強い情こそ、イエス様についていくときの大きな試練です。彼らがこういう機会にみことばに従わなかったならば、彼らは次々と色々な用事で帰りたくなり、結局はイエス様から離れてしまうでしょう。この世の何よりも神様の国とその義を第一に求めることが、イエス様の弟子の基本です(マタイ6:33)。
2.みことばに止まる者(ヨハネ8:31)
言い換えれば、みことば中心の生活、すなわちみことばに深く根ざしてみことば中心の生活を続けることである(CONTINUE)。みことばに根ざす生活(コロサイ2:6~7)のことです。みことばを聞いて、読んで、そしてそれを生活のなかで実践することです。いくら聞いても従順しなければ意味がないのです。みことばを聞いて従順するときに、このみことばは生きているのです。すなわち、生きる剣のようなものになり、私たちに力を与え、動き始めます(ヘブル4:12)。
3.愛する者(ヨハネ13:34~35、Ⅰヨハネ3:18)
人間は、愛によって生きるのです。全てが揃っていても愛がなければ、生きる意味を失ってしまいます。この世の全ての歌、小説、映画、詩、ドラマなどのほとんどの主題も愛です。愛が入らなければ、小説も、映画も、話も、人間関係も、ドラマも成り立たないのです。そのように、人間において愛は、全てです。聖書を一言でまとめるならば、それは愛です。Ⅰコリント13章には、愛がなければ全てがむなしくなると書いてあります。神様と人間を愛することこそ、聖書の核心です。人間を愛することがなくては、イエス様があの十字架を罪人である私たちのために背負うことはできなかったでしょう。このようにイエス・キリストについていく弟子には、どうしても愛が一番必要となります。愛なしでは人の救いに携わることはできなく、人を救うところか、その人を滅びに導いてしまいがちでしょう。
4. 実を結ぶ者(ヨハネ15:8)
木は成長すると、必ず実を結びます。私たちの心にも、みことばの種が蒔かれたら、成長の結果天の実を結びます。種、成長、実は、生きたものの特徴です。では、どういう実を結ぶのでしょうか。
1)人格の実(ガラテヤ5:22~23) ・・・ イエス・キリストを信じてから聖霊様によって結ばれる品性であり、生まれつきの性格とは違う。これこそが、永遠に変わらない、価値あるもので神の国で通用する、神の国の拡張のために必要不可欠なものです。
2)伝道の実(ヨハネ15:8) ・・・ ある一人が神様の子供として生まれるようになると、内なる人が新しくなる。すなわち、外見は変わらないが、実際にはその人の永遠の身分が変わり、地獄から天国へ行き先も変わる。また、人生の中心にイエス様がおられることになり、世を生きる生活のパターンや考え方、価値観等の様々な面においても変化が始まる。これらの生まれ変わった要素によって、クリスチャンは自然に周りの人々にイエス様を現すことになり、それによって神を知らない人たちがイエス様を信じるようになる。このように、自分の生活やことば、また人格によって自然らしい伝道が可能になり、魂の救いという実を結ぶことができます。
適用
1.上記の4つのしるしは、なぜキリストの弟子において大事だと思いますか?
2.イエス様の弟子としてのしるしのなかで私に一番不足しているのは?
3.そのために自分が今からできることは?
"イエス様の弟子としてのしるし"へのコメントを書く