安っぽい恵み・高価で尊い恵み(Ⅰコリント15:9-10)

9私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。10ところが、神の惠みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の惠みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の惠みです。(Ⅰコリント15:9-10)

ボンフェポ牧師が書いた、‘私に付いてきなさい’という題で翻訳された‘The Cost of Discipleship(弟子道の代価)’という本がある。ボンフェポ牧師はこの本で‘安っぽい恵み’をこう定義している。

“安っぽい恵み’は悔い改めなくても罪が赦されるという説教です。悔い改めなしに授ける洗礼です。罪の告白もなく参加する聖餐であり、 人格的な変化もないままの兔罪の確認です。 従順のない恵み、 十字架のない恵み、 生きておられるキリストへの信仰もないままの恵み、これが安っぽい恵みです。”

キリスト教は、恵みによる救いに生かされている人たちである。恵みとは、一言で言うと恩のことである。それは受ける資格もないのに無償で与えられることであり、したがって受ける人は恩を感じる。それは正当な何かをしてその代わりにもらう報酬とは違う。わたしたち人間は罪深い存在であって自分の自らはその罪から赦されることができない。それで神様はこういう罪深い人間の赦しのためにご自分の中で一番価値あって一番高いと思われるイエス様を十字架に殺すことによってわれらの罪が赦されるようになった。ここにわたしたちへの恵みがある。この恵みは神様にとっては最高で尊い価値であり、その値をつけることのできないほどの愛であり恵みである。

神の恵みや愛を知らない人にとって聖書のことばは、自分とは遠いことのように聞こえる。つまり彼らにとっては結果的に神の恵みは安っぽいものである。神の恵みや恩を知らない人たちは次のような人である。

苦しみを通した訓練もないままの成長、 自分を捨てることのないままの弟子道、人々に仕えることもなく人に認められて高くなることだけを願うリーダーたち、 教会の職をまるで会社の肩書きや階級のように勘違いをする、自称‘主のしもべたち’、祝福は願うが犠牲を拒否する信者たち、こういうことで一杯の教会は亡びるしかない、つまり“安っぽい恵み“を追求する安っぽい教会である。わたしたちの教会はどうでしょう。

神からの恵みが人間に伝わる中で、ある人はその本来の価値をありのまま受け取ってその恵みの救い、そこから受けた永遠のいのちを大事にする人がいる反面、ある人はその恵みの価値をまったく知らないで生きるクリスチャンという人もいる。

たまにニュースで骨董品らしいものをただでもらったが、実はそれがなんとものすごく高いものであったことが判明してうれしがる人がいる。またある人は、ものすごく高い骨董品を無知でゴミのように捨てて後になってそれがものすごく高い骨董品であったことが分かって後悔する人がいる。骨董品の価値を正しく理解してその価値に相応しくそれを管理する人こそ素晴らしい骨董品屋である。

口では100万ドルより高いといいながらも、実際することを見ると、1000円の価値と同等のように行動する人が多いのでは。

“私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の惠みをむだに受けないようにしてください。(Ⅱコリント6:1)”

神様が人間のために行なった十字架での愛の恵みの価値を正しく理解できる人、そしてその感動に心が打たれた人は絶対安いこの世のもの、誘惑、金、名誉、快楽に溺れるはずがない。

クリスチャンという部類のなかには、2つの部類に分けることができるならば、一つは神からの計り知れない恵みを知ってその恵みに生かされる人がいる。彼らの人生はこの世の安っぽいことに心を奪われるおろかさを許すことができない。しかしもう一つの部類は、神の恵みを心から受け入れ、理解したことも、また神の恵みに体も心も漬かったことがなく、頭では理解しようとするが、実際はいつもこの世のことにすべてのことを奪われてしまう人々である。

彼らは、神様のために生きることはすごく難しいことであり、時には自分の最高の力を絞ろうと努力するが、ついついそれは成功することができない。無理やりにがんばろうとするから、信仰はきつくて、信仰は大変だという。しかし、神の恵みに染まった人は、パウロのような告白をする。いくら神のために自分を粉々にしてもそれがただのきつさではなく、それを喜びとすることができる人である。

前者の人は、つまり恵みを知らない人、それに生かされている人ではない。そのような人たちの特徴は。

●学びはしても実践はしない。口は達者であっても行いはない。
●人に仕えられるのは好きでも人に仕えることはしない。
●祝福されることは願うが、自分を犠牲することはしない。
●恵みを知る人はどうすれば神様のために生きるかに悩むが、恵みを知らない人はどうすれば楽に信仰生活をすることができるかに悩む。あなたはどちらになりますか。

●自分がしたいことを中心に生きる、いわゆる広い道に歩むばかりを選び、狭い道は拒む。
もらうのは好きでも捧げることはしない。

彼らには神さまのために献身するとか、神様のために物質をささげる(献金)とかは、ありえないことであり、自分の人生の奇跡が起こらない限りそれらはできないように思う。

彼らに狭い道に入りなさいというマタイ7章13節のことばは、自分には理解できない。
“狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。”

広い門は、自分の好きなように生きる人のことである。自分が好きなことは必ずする、自分がいやなことは絶対しない。完全に自分流で生きる人のことである。

また、彼らはイエス様が弟子たちに言われた以下のことばには絶対応じることができない。まるでその話に応じるのは晴天霹靂のように思われるだろう。
"イエス は、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の 十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。"(ルカ9:23)

一体聖書のどこにキリスト信じれば金持ちなるとか、偉い人になると約束していたのですか? もちろん、似たような記述があるが、それはあくまでも信仰による結果の祝福であって、最初からこれを狙って言われたことはない。

キリスト信じれば金持ちになって、よいものを食べて、 よい暮らしができるような言葉が果してどこにあるんですか?  どの教会に通えば平坦な人生を暮すようになって、 万事がうまくいき、病気にもかからずに、苦労しないで生きることができるだろうか。

もうずいぶん前に救世軍の創設者であるウィリアムブースはこれからキリスト教が危機に遭うことを次のように予言しました。 "次の世代の最大の危険は聖霊のない信仰、キリストのないキリスト教、悔い改めのない赦し、 新しく生まれることのない救い、 地獄のない天国信仰であろう。“

神様の恵みが高い理由は神様ご自信が人間の体を着てこの地にこられ、人類のすべての罪を十字架で身代わりに担って人間の罪の代価を支払い、人間にいのちを与えてくださったからである。

今日教会、クリスチャンから聞こえてくる話や説教の殆どは、この世の福、 成功等の繁栄神学が主流となっている。聞きやすい説教、 耳に逆らわない説教が横行している。これでないと教会にくることを好まないという人たちが多いとも言われている。説教や教会の世俗化が進んでいるということである。

安っぽい恵みは、"キリストを受け入れさえすれば永遠のいのちと救いを受ける"と言う。これをあまり強調したあげく自分の人格や行為に対しては何も考えない人々である。たしかに、こういう観点から見れば救いを受けたと勘違いする人々は多いかも知れない。しかし本当に救われた人は少数に過ぎないという意味でもあるかも。

安っぽい恵みは、"私たちは信仰で救いを得たので行いは報いのためには必要だけどそうでなければ入らない"と言いながら行いを軽視する。

このような安っぽい恵みはひたすら、 "信仰"のみを強調しながらも悔い改めなしで罪からの赦しを求め、さらに絶対的必須要素である聖霊によって新しく生まれることを無視する傾向を生まれる。

彼らには、恵みが分からないので、クリスチャンらしい人格も、行いも伴わない。
"言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。" (マタイ福音 18 : 3 )

"わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの 父のみこころを行なう者がはいるのです。" (マタイ福音 7 : 21 )

あなたは神さまの恵みをどのくらいの価格として考え、行動していますか? 口では神の恵みは何よりも高く、何よりも大事であるといいながら、あなたの行動ではそれを証明しているのですか。それとも、口ではそういうものの、あなたの行動では安いもののように行動しているのではないか。

愛に動かされて働く人、恩に動かされて働く人、その人たちは決して疲れることはない。神様の恩を知る人も同じである。神の恵みに深く遣った人、神の聖霊が共にする人は、無理やりはない。化学反応は外側の変化だけではなく内側の完全な変化を伴うように、キリストと出会うと、こういう反応が起こる。そしてそこには、必ず人格の変化、価値観の変化、それによる生き方の変化、行動の変化が現れるはずである。

わたしたちは、もう一度自分をふりかえる必要がある。
1. あなたはその神の十字架の恵みとあなたに注がれた恵みの大きさを知るべき
2. そしてあなたの救いが本物であるのか確認すること。
3. 自分に人格の変化、行動の変化、価値観の変化がないならば、あなたは聖霊が入っている人とは思えない。真剣にあなた自信を省みて救いからやり直すこと。

"安っぽい恵み・高価で尊い恵み(Ⅰコリント15:9-10)"へのコメントを書く

お名前:
ホームページアドレス:
コメント: