「神様に知られているという恵み」ルカ福音書19:1〜10

今日の話しはクリスチャンになって長い人にとっては何度も何度も聴いた事のあるはなしです。

それはザアカイと呼ばれる人がイエス様に出会って人生が180度変わってしまった話しです。

ザアカイは取税人の頭と書いてますね。
取税人とは税をとりたてる仕事です。
当時ユダヤの国は、ローマ帝国の支配下でした。

ローマ帝国は、支配下のユダヤ人から税金をとっていました。

取税人自身もユダヤ人だったので、
同じユダヤ人から非常に嫌われる仕事でした。

更に取税人たちは、ローマ帝国が決めた額より多くの金額をとって、それを自分の物にするという事をしていました。

取税人たちはそういう意味で、当時は、遊女や罪人たち同様に神様の祝福を受けるのに値しない人としてされていました。

ザアカイという名前の意味は、
「清い人」と意味らしいです。

ザアカイの気持ちをイメージするとどうでしょうか。

お金は非常に沢山もっています。

しかし、いくらお金を集めても埋まらない心の虚しさ。

金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、空しい。」(伝道者の書5:10)

と書いてある通りです。

そういう意味でザアカイはきっとコンプレックスの塊だったと思うんです。

だからこそザアカイは思ったのでしょう。

イエスキリストに出会えると人生変わるかも知れない!と。

自分みたいな嫌われていて悪いことばかりしている自分にも何か、何かを変えてくれるんじゃないか?

そんな期待をしてイエス様に会いに行ったのではないでしょうか?

人が神様を求める時の様子です。

なんかかわれるかもしれない、

一目みるだけで

ザアカイは群衆をかき分けてイエス様を見ようとした。

しかし、背が低くて見えない、

木があった!

もうのぼるしかない!

大の大人が木に登りますか?

絶対に登りませんよね。

それどころじゃなかったのです。

必死に登ってイエス様を見つめた瞬間、

ザアカイ早く降りてきなさい!

このイエス様の一言ですね。

何で自分の事知ってるの?
って思ったでしょうね。

嫌われもので、神様の祝福からもっとも遠いとされてた自分みたいな人間の名前を、イエス様は既に知っていた。

しかも、今日泊まりに来ることにしてると。

この瞬間、イエス様に出会ったザアカイは、救われた、そして変えられました。

そして悔い改めて、貧しい人にお金をほどこして、騙しとった人には4倍にしてかえします。と全く別の人間になってしまった。

救われた人間が結果として180度違う人間になってしまったいう話しです。

これは救われた結果、価値観が変わり行動が変わったとい意味があります。

決して人に施す事が救いの条件では無いという意味があります。



全ての人がザアカイみたいにコンプレックスに悩み、

自分は価値が無いと思っているのでは無いでしょうか?

私も人生の中で特に思春期の頃に、
そういうものを強く感じる時期がありました。


自分が秀でたと思っていたものが
周りと比べると大した事が無いと気づいてしまったのですね。

人と比べることで得る自信って非常に脆いんですよね。

状況によってすぐ変わる。

ザアカイと状況は違いますが、

本質的に変わらないと思うんです。

そんなコンプレックスを強く感じた高校生を過ごしてきた自分が、


大学生になって、イエス様に出会って、救われて、

本当に正しく自分の価値観を持つことができるようになりました。

それは、私という存在そのものに価値があると言うことを知ることです。

そして「私は神様に知られている」という価値。

この世界は、多くの人に知られているということが価値があるとされてますね。

有名人は沢山の人に知られているほど価値があると思います。


それよりも神様が自分を知ってくれているという事の方がどれだけ価値がある事では無いでしょうか?

全てを作られた存在ですからね。

僕が聖書を読んで、神様を知った、出会ったと思ってました。

神様は私を知っていて、そして導びかれたということが正しいんです。


神様に知られてるっていうこと自体が恵みなんだと感じて今日の説教に繋がりました。

その後ザアカイはパウロの伝道を助けて、カイサリアの主教となり平安に永眠したと伝えられています。

人生最高の喜びと体験的信仰(ヨハネ15:7-16)

<聖書箇所:ヨハネ15:7-16>
7あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
8あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
10もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
11わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
12わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
13人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
14わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
15わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
16あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

<初めに>
きょうの聖書箇所には、クリスチャンが結べる実について紹介している。実を結ぶとは、実際の信仰生活において神様の恵みを自分の身に体験するという意味である(16節)。神様のすばらしさを体をもって感じるという意味である。私たちは全部実を結ぶべき、いや結べるという、それが神様が私たちを救ってくださった目的であると話す。にもかかわらずそれがわからないというのは、信仰者としてはよくない。私が体験信仰の大切さを皆さんに最近何回か話していた。信仰がなぜ生ぬるいか、なぜ熱くならないのか、それはこういう体験的な信仰がなく、人のことしか聞かないので、それ本当かなと、そんなこと私に起こるわけがないとか、考えてしまう。しかし実を結ぶことは、証しであり自分の人生に神様が残した信仰のしるしである。私たちクリスチャンは、みんなそういうことをいくらでも経験できる存在である。きょうは、こういう体験的信仰について私の証しを中心に考えてみたい。ただ、私がしたということではなく、あくまでも神様が私の中でなさったことなので神様が栄光を受けるべきである。私はもっともっと実を結ぶべきなのに、実は弱さや怠けや不誠実によってそれがもっとできなかったことをここで告白する。ここでは、体験信仰の3つのことを考えてみたい。それは、祈り、みことばを守る(実践)、魂への愛について考えてみる。

●神の恵みと力による実、これは永遠に残る。私たちは最終的にそういう実を結ぶために努力すべきである。
●お金や名誉、欲に従って決めてはならない。使命、召命、神様の御心を追い求めるべきである。


1.祈り:救われたばかりの時、教会設立
祈りは霊の呼吸である。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています(Ⅰペテロ5:8)


祈りには神の力がある。悪魔を追い出すことも祈りの力である。私が最近あるところから聞いた証しであるが、ウガンダのある若い20歳ころのクリスチャン青年のことである。彼は生まれる前の母親の体内から、すでにサタンや悪魔を崇拝するグループの指導者である母親によって悪魔にささげられた人である。その母親は魔術や呪術を行い、また人の魂を破壊したり、悪魔にささげたりしていた。この若い青年も小さいころから悪魔のすごい力が出てきており、数々の悪魔的な活動を行い、人々の魂を破壊したり、人生をだめにしたり、死に追い込んだりしていた、彼の人生は血まみれの人であった。彼は数々の神秘な力を持っていて、時には体から魂が離脱して空中に上り、そこでほかの悪霊と一緒に、ある人やクリスチャンの魂、または教会の上に移動して、そこでその対象を破壊したり、悪魔的な働きをしていた。もちろん、彼がそういう破壊活動をすると、その反対側には天使も何人かいて、彼らと戦いをしたりしていたという。彼が空中で見たことによると、クリスチャンたちの祈りには、違いがあるという。ある人の祈りは、祈りが煙と一緒に上ってきては、本当にたばこの煙にようにすぐ消えてしまうことがあるという。祈りに集中できず、雑念、妄想、不信仰の祈り、またはすぐやめてしまう祈りなどはこの煙のような祈りである。実際、ヨハネ黙示録8:4にも同じ内容があります。

香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。(ヨハネ黙示録8:4)

主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。(詩編34:7)


またある人の祈りは、ほぼ天にまで上るが、最後のところで悪霊たちが蓋をかけることでダメになる残念な祈りがあること、もう一つの祈りは勢いよく天に昇っていき、神様の前に届く祈りである。この時に、悪霊はその祈りが天に昇れないように邪魔をする。しかし、反対では、聖霊はもちろん天使が助けてくれる。ただ、天使が元気に働く場合もあれば、天使が弱くなり、悪魔が強くときもある。それを具体的に言うと、クリスチャンの人が、強い祈りをしたり、信仰をもって生きたり、罪や悪から遠ざかっている場合は天使が強くなり、反対に悪霊は弱くなり働けない。しかし、クリスチャンの人が、不信仰のことをしたり、祈らなかったり、罪や悪を犯したり、神から遠くなると、悪魔が元気になり、反対に天使は弱くなるのでその戦いは失敗に終わる。もちろん、まともに信仰によって生きるならば、私たちは必ず勝利することも決まっている。また、彼は体から離脱して空中で見た時に神様との関係がよい人の上には、ふさがることもなく大きな穴が開いていたという。つまり、神とのやり取りに支障がないということである。この話は、100パーセント正しいとは思わないし、聖書に書かれているわけではない。しかし、全般的にはそういうこともあるのではないかという印象は受ける。あくまでも一人の証しであると思ってください。ただ、十分ありうるような話ではないかと思います。誤解はしないようにしてください。

2.戒めを守る:神様への従順は多くの恵みや祝福をもたらす。
私は大学生時代に、軍隊終わって大学に戻った3年生の秋に学校のクリスチャンサークルにて救われた。3ヶ月くらいの学びや聖書通読をしたのちに、自分でクリスチャンになるという決断をした。そしてすぐ一生懸命に祈り始めた。一つ目の祈りの課題は、正月に里帰りをしたときに、いつも行われる法事のことから守られるように真剣に祈っていた。私の家は、親戚の中の一番の本家であり、その上父親が亡くなっていたので、すべての法事、それも親戚の法事にまで私が主導的にしなければならなかった。親戚の中には、年取った多くの叔父たちがいて、法事に参加する。今までは何の抵抗もなく参加したが、クリスチャンになってからは違う。何とか逃れる道をずっと祈っていた。それから覚悟を決めて里帰りをした。その時に、ちょうど隣の家の若いおばさんが急死をしていて、私は家に着くなり、その家に行き、手伝いをするように言われた。それで一生懸命に手伝いをしてきて、翌日の正月と法事を迎え、私はドキドキしていた。その時に、一人の叔父が私に話した。あなたは昨日亡くなった人のお世話をしたので、法事に参加してはならんということばだった。私はほっとした。びっくりした。これは私の祈りの初めての答えだった。感動、感動だった。そのあとは、自分でその法事に立ち向かう力が生まれた。

もう一つ、私はその時に体験したのがある。それは神様のみことばに従うことであった。クリスチャンになったばかりの私は、気になることがあった。それは、私が大学に復学、戻るときにうそをついて復学したことである。大体、前期に復学できる起源は4月2日であった。しかし、私は軍隊が終わったのは、4月8日であり、わずか何日差で復学ができず、また一年を待たなければならなかった。それで、4月1日に軍隊が終わったという風にうその文書を出して復学をして、そろそろ一年がすぎるときだった。でも、私はこれが気になり、神様に祈った。そしてこのことを学長に正直に告白をし、それでだめでしたら最初から始めるつもりだった。私は学長あてに手紙を書いた。その時もドキドキしていた。でも、神様の前で正直になることで生きることがよいと思った。その書いた手紙を学長に送り、学長にどんな判断でも下してくださいと書いたので、その返事を待っていた。従順するのは怖がった。でも書いて手紙を送ったときにはすごく平安だった。それから何日後、返事が来た。そこには、”あなたは大丈夫、わかった。そのまま勉学に励んでください。問題にしない”と書かれていた。

このように大変だったけど、でも神様に従ったときにこの上ない平安と喜び、また素晴らしい神様への体験が心に刻み込まれ、それから信仰は熱くなり、神様との関係が深くなってきた。

狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。(マタイ7:13)

皆さん、選択は神様に従う方向へしてください。その神様のほうを取るのが狭い門である。一方、自分の欲や好み、またはお金や名誉、権力が優位になってしまう選択は、広い門への選択である。最初は、広いほうが素晴らしく、その見栄えもよく、本当にすごい道のように見える。しかし、その道はどんどん狭くなる。そしてその道に悪魔はいっぱいであり、多くのトラップがかけられている。成功したとしても、逆にその成功のゆえに滅び、堕落し、腐敗してしまう可能性が高い。しかし、狭い道は最初はみすぼらしいけど、どんどん広くなり立派になり、豊かな実が多い道である。平安と恵みと、神の力が伴う道である。どんなことがあっても、広い道は危ない。狭い道、神の喜ばれる道を選択することである。

欲に従って決めてはならない。神の御心を探すのに時間をかける。お金や名誉などに従って選択をするのは悪魔の罠であり、神様の試しでもある。それよりは、使命、召命、神様の御心を追い求めることである。16節に書かれている。実を結ぶように神は願うが、永遠に残る実と書かれている。人間によって作った実は一時的であるが、神様の実は永遠に残る。とくにその神様に従って、祈って得られた実は永遠に続くようになる。そういう実を私たちは結ぶことで、体に神様を刻み込み、熱いかつ堅い信仰者へと成長していける。

3.人を愛する:愛には多くの実が結ばれる。魂への愛こそ永遠に残る最高の実。

私はこういう体験をして、信仰が少し熱くなり、今度はこの神様の働きをしていきたいと願うようになった。それで、大学を卒業して中学校の先生になった私は、結婚をして学校から3分程度のところに住まいを決めた。そして、私たち夫婦はこれから伝道活動をすること、そして若い人たちを育てる活動をしたくなり、家内と私は家をオープンすることにした。多分、インネがが生まれたばかりの時から、一週間に何回でもいいから夜に若い人たちを迎え、食事のもてなしをし、交わりや勉強会をした。その時には、大体20から25人程度の若い男たちを私がお世話をするようになった。木曜日は全員集まる、他の日は個人的に家に来てもらって食事から始める。多分、一週間に多い時は4-5回夜の食事と交わり、少ない時には2-3回だった。夫婦だけとかの食事はすくなかった。その時は、学生、教師、神学生、医学部生、一般の社会人だった。今彼らは成長をして宣教師、牧師、医師、教授、教師などとなって世界のいろんなところで神様のために働いている。その彼らは今もその時のことを忘れず、私たちに感謝を送ってくれる。私たちは、彼らを本当に愛し、私たちのもっていることを用いて最大に務めたように思える。そのみじめな愛を用いて実を結んでくださった。皆さんも魂への愛、仕えなどをもって生きていけば、きっと愛は必ず豊かな実を結ぶようになる。

ヨハネ21:15 「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」 「わたしの小羊を飼いなさい。」

4.結びと祈り

天の父なる神様! きょう体験的な信仰の大切さについて学び感謝します。主は私が信仰による実を結び、それを体験できることを望み、あらゆる場でその実を結ばせようと助けておられます。きょう、祈り、みことばの守り、魂への愛という領域で実を結ぶことの大切さを学びました。どうか、この私の人生にも自分ではなく神様による豊かな実を結び、抽象的な信仰ではなく体験的な信仰へと成長し、もっと熱い信仰へと変化していけますように。もっと粘り強い祈り、厳しい状況の中でも主のみことばへの道を選択する信仰と勇気、魂のために情熱をささげていく真の愛に励みたいと思います。私の弱さを助けてください。それによって永遠に残る実を結んでいけますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメンKakaoTalk_20191006_143022079.jpg

「リンカーン」大統領の信仰十戒

第一は、私は主日(日曜日)を神聖に守り、礼拝生活に努める。
第二は、私は日々神の言葉である聖書を黙想し、その言葉を実践する。
第三は、私は助けを与えてくださる天の御父に日々謙遜に祈る。
第四は、私は私の思いではなく、神の御心に従う。
第五は、私は神が恵んでくださったことを覚えて感謝する。
第六は、私は弱いが、しかし神の助けに信頼する。
第七は、私は神だけを高くし、その方のみに栄光をあがめる。
第八は、私は神においてすべての人は自由で平等である信じる。
第九は、私の兄弟を愛し、隣人を愛するようにと言われた主の命令を実践する。
第十は、私はこの地上に神の真理と正義が実現できるように祈る。

悪魔に餌を与えてはならない

Ⅰペテロ5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

黙示録8:3また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。4香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。

テキストとしてはありませんので、興味のある方は次の動画をご覧ください。
https://youtu.be/o9Uq3-zl9-g

STOP & PRAYER!(晩鐘から学ぶ)

ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet/1814-1875)は、19世紀フランスの画家。大地とともに生きる農民の姿を、崇高な宗教的感情を込めて描いたミレーの作品は、早くから日本に紹介され、特に親しまれた。

彼の代表作、晩鐘(ばんしょう)には、畑で働いていた夫婦が教会の鐘の音に合わせて、仕事を止めて、きよい手を挙げて共に祈りをする崇高な姿である。私たちも、一日何回かこの教会の鐘、天からの鐘の音を聞いて、きよい手を挙げ祈る時間を持つ必要がある。仕事が始まる前でも、終わってからでもよいし、休憩時間でもこのミレーの作品の中の農夫のような姿が必要である。

あなたが創造主の神に祈りなしで収めたきょうの成功は、いつかそれは失敗の素になるなるかもしれない。祈りが伴う、失敗のように見えることも明日の成功に変わるであろう。bansyou.jpg

報われる祈り(ヘブル11:6)

ヘブル11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

上のヘブル11:6 節に出てくる神様は創造主の神様である。無から有を作り出す神である。3節にそれが出ている。Creatorの神である。その神様は私たちにご自分に求める、つまり祈るようにと声をかけている。

ヘブル11:3信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

本当の信仰をもっている人たちの特徴は、以下の2つである。

①その信仰が生活の中に現れる。
信仰のない人とは違う生き方をする。生き方の次元が違う。神の領域、死後の領域までがその行動の一つ一つが溶けている。まるで1次元の人生が、3次元4次元の生き方になることと同じである。神を信じる信仰の人間は、人生の幅、長さ、高さが全然広がるようになる。

短い一本の線のような人生が、広い空間のような人生へ変わる。つまり人生は70-80年だけの短い人生だが、聖書によれば死後こそ本番であり永遠であるという長い線に変わる。また今までは自分の人生の線は細かったけれども、その線の人生に意味や影響力、価値による幅が大きくなり面のように広がる。そこに今度は神から深みが与えられると、線の人生が立体のように膨らんでいく。その人生はもっと豊かでもっと濃くて味のある人生になっていく。 

②信仰ある者は祈りをするようになる。
創造の神、全知全能の神を信じる者は、やはりその神に祈るようになる。人間は様々な限界、弱さ、もがきを持っているので神に祈るのは自然である。そして神はその祈りを必ず報いてくださると約束している。

実際、神を信じる者は上記の2つ、みことばを生活の中で実践することと、祈ることを通して、神の力や祝福を得るようになる。神様のことばに従って選択をすればそこから神様からの祝福に出会う。また祈りを通してそれがかなえられるようになる。これは信仰の体験として自分の信仰を強めるようになる。この2つを経験したクリスチャンは、ことばだけのクリスチャンとは全然違う。

その中でもきょうは祈りについて考えてみることにしたい。
ただ、祈れば多くの奇跡や祝福があることを知っていながらも、なかなか祈りをしない人が多い。祈ろうとすると、急に空想、雑念、何かを思い出される。携帯や遊ぶときは眠くないのに、祈ろうとすると眠くなる。

※きょう、神様は祈りをもって神を探し求めるように話す。そうすれば、必ず神は報いてくださる。祈りにささげた時間も、努力も、苦しみも惜しくなく豊かに報われる。神ご自身を探し求め、その方に祈りを行い、そこからくる祝福、完全なる報いを受けて生きることは幸いである。神様が与えてくださるのは、完璧で素晴らしい。自分にも人にも神にも栄光となる。人間は自分ではできない多くのことがある。

1.なぜ祈らなければならないのか。
1)報われるために

ヘブル11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

※神に近づく:祈りをもって神に近づく人の願いを聞いてくださる。神様は私と無関係の方ではない。あなたの祈りに耳を傾ける神様である。

2)誘惑に落ちいないために
ルカ22:40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。

※悪魔は私たちの周りにたくさんのトラップや罠をいろんなところにかけている。一般に、悪魔は薬、中毒、酒、快楽、ポルノなどなどの領域に多くの罠をかけている。

※悪魔は、人の口に、思いに、行動にトラップを設置している。

3)意味ある人生を生きるために
ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

※神からきていないものは、大体自分の人生をよくするより、破壊しやすくなる。
もともと、神のない私たち人間は欲や罪による実を結ぶのが得意である。そういう人間が神様につながることによって、初めて意味のある、永遠になくならない実を結ぶようになる。

GOOD-GOD------>0(いくら素晴らしいこと(GOOD)でも、神が抜けてしまうと、0が残る)
0+GOD----->GOOD(いくら0のような人生でも、そこにGODが加わると、GOODに変わる)

4)神様と近くなるために
申命記4:7 まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。

※人間が祈りをすることで、神様が近くにきてくださる。それが繰り返されると、神様と人間は近くなり親しくなり、強い関係になる。祈りの父と呼ばれる、ジョージミュラーは以前は放浪者で牢にも入れられた人であるが、友たちの祈祷会に出席してショックを受け、変わり始めた。

2.祈るときに覚えるべきこと
1)神がおられる(神が存在するだけの話ではなく、なんでも作り出す、いや私たちのどんな祈りにも答えられる全知全能の神、創造主の神であることを信じる)

エレミヤ33:2「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。3わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

ローマ4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。

マルコ9:23するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」


※ジョージミュラー:ドイツ生まれでイギリスで孤児院を経営していた19世紀の宣教師。祈りの父
※彼は人にはお金などをお願いしたことがない。
※全体で15万人の孤児を養った。彼の祈りは一生5万回答えられた。彼は祈りの内容を記録、答えも記録したからそれを数えることができた。答えられなかったことがない。もちろん、あることは時間が遅れたことはある。
※孤児院新築時:この時も、彼は神に祈った。”この事業が神様のことですから、心配して倉庫を満たすのは私ではなく神様ご自身ではないですか。”と祈り続けた。すると、建物の設計、費用、働くスタッフなどが金額与えられた。土地のことも、ある日老人がジョージを訪ねてきてわあつぃの土地をあなたに、安い金額で売るように夢で神様が言われたという人もいた。
※彼は1、2,3年祈るのは当たり前、ある友のため50年も祈った。その人は、ジョージミュラーが死んでから救われた。

2)与えられるまで祈り続ける(ルカ11、18)
ルカ11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。

※1-2回、4-5回程度祈ってすぐ祈りをやめるようなタイプが多い。そおれで答えられることは難しい。私たちは最後まで、答えられるまで祈り続けるという決心をもって祈るべきである。

3.結びと祈り
※Holy time(夜9-10時の間の15分):賛美1--2曲、聖書1-2章、祈り5分で一日の聖なる時間を持ちましょう。時間帯は個人的に変えてもよい。

※しばらく水曜日に祈り関連の動画を一つ上げます。それを視聴し祈りへの心を保ちましょう。

最後、以下の祈りを共にして終わりましょう。

天の父なる神様! きょうは私たちの叫びや祈りに報いてくださる神様について考えました。今も神様は私が祈りをもってご自身に近づいてくるように待っています。天の祝福、神様からの完全な報いのプレゼントを用意し、与えることを約束しています。どうか、私はこの神様に祈りをもって近づきたいと思います。そして神様からの完全な報いを得て、体験的な信仰による喜びに満たされますように。これから私の願いが報われるまで、私が祈り続けることができるようにお導きください。イエス様のみ名によってお祈りします。アーメン1568638974042.jpg