自分を罪に定めてはならない(良心の呵責より神に感謝を)! 자신을 정죄하지말라

多くのクリスチャン、ノンクリスチャンを問わず過去の罪による呵責やその裁きの刑罰に対する恐怖に苦しむ人が多い。過去の罪こそどうしようもなく手を打つ方法がない。だからこそ絶望感を感じる。しかしきょう聖書は断言する。キリスト・イエスの中に入っている人は、決して過去の罪によって責められたり、罪に定められ苦しんだりすることはない。あなたに代わってキリストがあなたのすべての罪による侮辱や刑罰を受け、あなたを「罪による罰の律法」から完全に開放したからである。あなたはむしろ、神様の愛やキリストの十字架のことに感謝をささげ、その方のために生きる新しい心で満たされればよい。
많은 기독교인, 비 기독교인을 막론하고 과거의 죄의 가책이나 그 심판의 형벌에 대한 두려움에 시달리는 사람이 많다. 과거의 죄야말로 어쩔 수없이 해결의 방법도 없으니 더더욱 절망을 느낀다. 그러나 오늘 성경은 단언한다. 그리스도 예수 안에있는 사람은 결코 과거의 죄로 말미암아 책망하거나 정죄하믕로 고통받아서는 안된다고 선언한다. 당신을 대신하여 그리스도 께서 당신의 모든 죄의 모욕과 형벌을 받아 당신을 "죄의 형벌의 법"에서 완전히 해방했기 때문이다. 당신은 오히려 하나님의 사랑과 그리스도의 십자가에 감사를 드리고 그분을 위해 사는 새로운 마음으로 충만하면 된다.

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人間の限界と弱さ!

人間は強いと思う反面、実は非常に弱いというか、人間という存在としての限界を持っている。例えは、人間は何をすべきで、何をしてはならないという判断力は持っているが、しかしいざとなると、人間はすべきことはしないで、逆にやってはならないことをやってしまう存在てあることに気付く。ときには、絶対にやりたくないと決心をし、何回も近いを立ててもいざとなると、変なことをしてしまう。もがきをしても変らない。

聖書は、こういう人間の矛盾に対し明快な説明をしてくれる。それがきょうの聖句である。人間には、誰しもが抱えている罪というものがある。その罪の力は想像以上に強く、人間がまともに生きることがてまきないようにする。つまり、やるべき善なることではなく、やってはならない悪に支配されるようにする。

罪の強い力によって人間の中には、やりたいけどやれないという自己矛盾が生まれ、人間を苦しめる。その苦しみはときには深刻であり、最終的には人間を裁きに導き、永遠の滅びにまで連れて行く強力で破壊的である。

ところが、すべての人間は例外なくこういう罪を持っていると書かれている。聖書はまたこういう罪の問題だけてまはなく、その解決に対しも教えている。
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罪・悪魔・永遠の滅びの世界にとどまってはならない!

上にあげた罪・悪魔・永遠の滅びの3つは、繋がっている永遠の死と絶望をもたらす[死のセットもの]である。しかし、その反対は義・神とキリスト・永遠の天国で、永遠の希望をもたらす[いのちのセットもの]である。

人々は自然と死のセットのほうを好み、その力に縛られ生きていくしかない。この力はあまりにも強く自らは切ることができない。キリストの力なしには不可能である。暗闇を追い出せるのは他ではなく光である。

人の中に[いのちのセットもの]が入れば、自然と[死のセットもの]は消えていく。今日も多くの人は、この死の鎖から離れずその奴隷として生きる。しかしその結果は永遠の死である。そこから、キリストの神に仕え、永遠の救いのきよき実を結ぶようにしようではないか。
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キリスト者の幸せと喜びの理由

人間の常識の一つは、行いがあって不法や罪が赦され、さらに救いを得るということである。しかし行ないを持って考えると、すべての人は救われるところか、むしろ裁かれ罪の罰を受ける可能性が圧倒的に高いという事実に気付かない。確かに行ないについて話すと、それは救いと災いを同時に生み出す可能性があるが、実際は救いより滅びをもたらす可能性が遥かに高くそこから真の幸せや救いの確信は得ることができない。

聖書は行ないから救われようとする人は真の救いや希望も、また赦しや幸せもなく、むしろ絶望に落ちるしかないと教えている。また聖書は、不確実な私の行ないの代わりにキリストの十字架での行ないとそれを受け入れる私の信仰によって救いと罪の赦しを得ると約束している。そこから真の喜びや感謝があるというのが、今日の聖句である。これが行ないがなく得られる赦しと救いによる幸せや恵みである。
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真の平和と恐れとは?

真の神を知らないと、真の平和への誤解が生じる。つまり、戦争や喧嘩さえなければそれですべては平和だと信じる。しかし、真の平和はそれとは違う。
生きているキリストの神との和解なしには、死後に押し寄せてくる裁きとその後の永遠の罰による災いから逃れる道がないということになるからである。そういう状態に置かれることは決して真の平和だといえない。真の神との和解による見えない永遠の平和を手に入れることが必要である。
こういう事実を知らないのでキリストの神への恐れがなく、だから真理に目をむけるより自分が好きなまま生きるようになる。
恐れはあまり良くないと思うが、恐れは大事である。予防的な恐れは真の平和をもたらすからである。反対に恐れを持たない無知はしばらくの平和感に浸かるかも知れないが、しかし結果的に永遠の取り返しのつかない真の恐ろしさに遭遇するようになる可能性が高い。真の平和と恐れを正しく知ればすべては変わる。それはあなたを真の平和に導くはずである。前もっての恐れは真の平和をもたらし、平和ボケは恐れをもたらす。
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真の平和と恐れとは?

真の神を知らないと、真の平和への誤解が生じる。つまり、戦争や喧嘩さえなければそれですべては平和だと信じる。しかし、真の平和はそれとは違う。

生きているキリストの神との和解なしには、死後に押し寄せてくる裁きとその後の永遠の罰による災いから逃れる道がないということになるからである。そういう状態に置かれることは決して真の平和だといえない。真の神との和解による見えない永遠の平和を手に入れることが必要である。

こういう事実を知らないのでキリストの神への恐れがなく、だから真理に目をむけるより自分が好きなまま生きるようになる。

恐れはあまり良くないと思うが、恐れは大事である。予防的な恐れは真の平和をもたらすからである。反対に恐れを持たない無知はしばらくの平和感に浸かるかも知れないが、しかし結果的に永遠の取り返しのつかない真の恐ろしさに遭遇するようになる可能性が高い。真の平和と恐れを正しく知ればすべては変わる。それはあなたを真の平和に導くはずである。
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異邦人の求めることと生き方(マタイ6:24-34)

●今日のお金の位置:神様同等の力や威力を持っている
間違いなくお金は生きていく上において必要なものであり、なくてはならないものである。お金さえあれば、信仰といのち以外はほとんど解決できるほどその力は大きい。したがって、多くの人はお金のために人生をささげるようになる。お金のためならいのちも考えずになんでもする人が多い。

●お金が奴隷なのか、お金が主人となっているか?
お金が主人ではなく奴隷になっているときは、一番よい働きができるが、お金が主人となるときは、お金は狂った暴君となる。

●お金とサタンの戦略:現代社会は拝金主義というか、お金に仕える金宗教が世界や日本を圧倒している。みんな将来への不安を感じ、お金を何とかしなければならないという焦りにとらわれている。悪魔はお金さえあれば、何でもできると話す。お金が最高だと教える。そして悪魔はそこに入り込んで多くの信者を倒す。

●神ではなくお金・仕事に仕える:お金に仕えるとは、別の意味ではお金につながる仕事に仕えるということである。仕えるとは、主従関係がはっきりしているという意味である。つまり仕事をするのではなく仕事中毒、お金中毒という形に発展することが危険である。仕事ならばお金のことならば何でも赦されるみたいな雰囲気、考え方が危険である。

・お金に仕えた結果:信仰が破壊、健康破壊、家庭破壊、幸せが破壊。それで、こういう破壊されたのを最後は修復するために、また稼いだお金を全部使い切る。それで、得たものなく失ったことばかりの後悔で人生を終える。

Ⅰテモテ6:10金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

●聖書の中にもお金に対する話が多いが、警告が多い。
それはやはりお金によって信仰がつぶれた人が多いからである。というのは、きょうのマタイ福音6:24にもあるように、神とお金の両方に仕えることができないと話している。

マタイ福音6:24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

必ず神か金のどちらかにしかできず、もう一方には愚かにするしかないということである。つまり金に仕えすぎると、神や信仰からは離れるしかないという構造となっている。実際多くの人が信仰から離れる理由が大体こに問題である。金に仕えすぎて神や永遠のいのちまでを失うという悲劇がいろんなところで生まれる。

●異邦人の求め方や生き方:異邦人とは、本当はイスラエル人以外の方を指すが、ここでは神様を信じない方の総称である。衣食住を第一に求める生き方、またお金に仕える生き方。つまりお金にしたがっていろんな行動をするし、お金のために何かをする。
①信仰に生きるクリスチャン:富より神に仕える ②信仰のない異邦人:神より富に仕える ③愚かで信仰の薄い人:両方に仕えるが、結局は信仰から離れる。

マタイ6:31そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。32こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

●信じる者に対する神の約束
ピリピ4:19また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

ローマ8:32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

・鳥や花の例話:マタイ6:26、30
野の花やゆり、空の鳥も神様が守り、導いてくださっているのに、まして神様の愛され、もっと尊いあなた方は当然神様によって守られるのではないか。つまり、異邦人ではないならば、衣食住への確信を持って、それよりもっと大事なこと、神の国と義、使命、伝導、働きのことを心配すべきではないかという叱りである。野の草や鳥にも満たない生き方で大丈夫なのかというか、鳥や草があなた方を見て笑うのではという話である。


●信じる者の求め方と生き方:主の祈りにあるように、み国がきますように。また日ごとの糧を与えてくださいと祈るべきである。ただ、祈りはしても、衣食住を人生の一番の位置、つまり神より上において生きるようなことはしない。

●神の約束を信じ神の国と議、または使命を第一に求める:衣食住ではなく神の国と議を求める。すろと、衣食住のことは神が責任を取ると約束されている。祈りはしてください。しかし、そのことで信仰をだめにするような生き方はやめてください。私たちは、衣食住が目的ではないし、そのために生きることでは充分ではない。それが使命でもない。もっと私たちがしなければならない使命があるはずである。それを最後まで求める必要がある。

マタイ6:33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
エペソ2:10私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。


●聖書的お金への価値観の確立:①私達はお金の主人となる必要がある。②お金は何かの手段であるのでそれを用いてもっと神の国に用いられること。③お金は使うために稼ぐ。漠然とお金をくださいではなく、そのお金をもって何をするかが大事であり、それを求めていく必要がある。そうすれば必要なお金も与えてくださる。備蓄のためではなく使うために稼ぐ。よく使うと神様から与えられる。たとえば、自分の生活だけではなく、献金、寄付、他の人に仕えることにも用いる。また、お金の中心の選択をしない。無駄をなくし善なるところに使う練習をつけるべきである。

箴言11:24ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。25おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。


Ⅱコリント9:10蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

上でばらまくとは、むやみにお金を使う意味より、自分の生活以外にも神や人のために使うという意味である。そうすると、むしろ豊かになる。過度にケチしてもむしろ乏しくなるばかりである。

2コリント9:10では、お金を使い方を種蒔きに例えている。蒔けば、2つを与えられる。1つは、種、つまり実を生産できる環境や機会を与えてくださる。もう1つは、今すぐの食べるパンを与えてくださる。完ぺきな祝福ではないか。

<結びの祈り>
天の父なる神様! きょうは異邦人の求め方やその生き方について学びました。信仰をもって生きる者として異邦人とは違う求め方や生き方をすることになるはずですが、残念ながらそういうことができず、異邦人と同じ考え方や生き方、求め方をしたことを大いに反省し、悔い改めます。どうか、これからは信じる者として、衣食住のために生きるのではなく、もっと神の国とその儀、または使命を求めて生きることができますように。お金の奴隷ではなくお金の主人として生きることで、信仰においても生活においても祝福され、人生を立派に全うすることができますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン