ニコデモの信仰と人格

●ニコデモのイエス様との最初の出会い
ヨハネ3:3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」

●ニコデモの2番目の登場:7章でユダヤ人が仮庵の祭り(かりいおのまつり)を迎えたときに、多くの人が安息日や割礼などの律法の問題でイエス様を捕まえようとしたとき
ヨハネ7:50彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。51「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
●ニコデモの3番目の登場:最後にイエス様が十字架にかかって死んだとき、キリストの遺体の始末をすること
ヨハネ19:39前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。40そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。

1.ニコデモという人の信仰(真理に対する真摯な姿、求道者的な信仰者)
彼は高官(最高法院のサンヒドリンの議員:72人中の一人)であり、バリサイ人で最高の律法学者、金持ちで、超成功した人である。しかし、それにも関わらず彼には真の満足はなかった。一般にバリサイ人がイエス様を信じるなんてありえない話である。求道者的な姿の人であった。そんな彼は前からイエス様の話を聞いていて、素晴らしい奇跡や癒し、その教えを見ると、どうもこれは普通の人間のわざではないことを知った。

3:2この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」

それで、ちょうどその時にその地域を訪れたイエス様の話を聞いて、彼はこの機会を見逃してはいけないと思って、イエス様にきた。多分人生に満足がなかった。求道の心でいっぱいであった。これが私たちが最後まで持ち続けるべき姿である。クリスチャンになっても同じである。神様の道を求め続ける姿勢は変わってはならない。彼は高官としての名誉、お金などすべてが揃っていても真の満足や平安はなかった。心の中の満足は外部の要素によらない。お金や名誉で一時紛らわすことはできてもそれで十分ではない。

彼はイエス様に会うために夜密かにイエス様を訪れてきた。そのだった一度しかないかもしれない機会を生かした。彼はイエス様によるたくさんの奇跡や教えを見て、きっとそこに救いの真理があると思った。この出会いで彼はイエス様を信じ救われたと思われる。神様の霊によって生まれ変わることができた。それはお母さんの体に戻って再び生まれることではない。この二度目の生まれは、人間ではない神様によることを知るようになった。このような人だけが神の国、天国に入れる。

3節には、神の国の話が出る。つまり、私たちには、この世の国と、神の国がある。目に見えるこの世の国だけがすべてではない。この世の国は体が死んだら終わる国である。この体は、両親からきており、両親も死に自分もいずれかは死ぬ。それでこの世の国、この世界は終わる。

しかし、この体が生きる間存在するこの世が終わると、今度は神の国(または地獄の国)が始まることを忘れてはならない。これは目に見えない、体が死んでも続く、永遠に存在する国である。この国には、どのようにして入ることができるのか。それは神様によって、キリストによって可能である。そのためには、以下にあるようにイエス様を通してもう一度生まれる必要がある。これが新しく生まれることである。一回目の両親からの肉の生まれが一番目の生まれとするならば、このキリストの十字架による2度目の生まれは、霊的な生まれと言える。結局、人間は2度生まれなければならない。一回は両親から生まれ、次は神やキリストによって生まれることである(ヨハネ3:16)。

16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

簡単に言えば、私たちの救いのために私たちの罪を背負って十字架で死なれたイエス様を受け入れることによって新しく生まれ、神の国に入るようになる。今はイエス様の十字架を受け入れることで私たちは簡単に神の国に入ることができるようになっている。体の生まれという一度だけ生まれた人は、2度の死を経験するようになる。それは、まずは体の死、その次は永遠の刑罰の地獄という死を受けなければならない。しかし、2度生まれた人、すなわち一度両親から生まれ、その後キリストによってもう一度霊的に新しく生まれた人は、一度だけの死で終わる。つまり、体が死ぬだけでその後は永遠の命をもらって神の国、天国に入るようになるからである。ニコデモはこの話を通してユダヤ教から改宗したと思われる。そして弟子たちのように、イエス様についていくことはできなかったが、ずっとイエス様の周りを離れなかった。そして何かあったときは、いつも現れてイエス様の側に立って働いた。伝承によると、彼はのちに信仰の働きをし、殉教したとも言われている。

2.彼の人格(信仰に基づいた犠牲と率先のリーダーシップ)
自分が必要な時だけではなく、イエス様が必要な時、困ったときには必ず現れた人である。特にイエス様が逮捕されそうになった時にも彼は現れたし、最後にイエス様が十字架で死なれた時にも、一番面倒なこと、遺体の処理や葬る時も彼が現れた。

自分が必要な時だけ現れて、人を利用する人ではなかった。彼はイエス様が、または人が必要な時にその人に近づき、犠牲を覚悟して助け、仕えていたはずである。今、私たちの周囲にはどんな人が多いだろうか。自分の必要のために利用価値があると思うときだけ現れ、利用価値がなければ去っていくのが普通である。こういう自己中心で機会主義的な生き方をする人は人間としてどこでも尊敬を得ることができない。でもある人は、人が問題ない時は現れないけど、人が困ったときには表れて面倒なことを自ら率先してしてする人がいる。こういう人が多い教会は幸いな教会である。しかしこういう人が少なくほとんどが自己中心的で機会主義的の人が多い。そんな教会は何の力も能力もない。指導者やリーダーシップは、こういうニコデモのような人である。大変なこと、厳しい時にもっと輝く人である。羊のために、人のために自分を自ら犠牲にして群れを引っ張っていく人、それがリーダーであり、牧師、牧者である。

結びの祈り
創造主の神様、きょうニコデモの信仰と指導者としての人格を通して多くのことを教えてくださり、ありがとうございます。求道者としての真摯な姿、とくに自分の身分・所有への覚悟の上、キリストを受け入れ、信仰の道を歩む姿から、信仰というのが何かを教えてくださいました。また、自分が信じる信仰やイエス様のために、大変な時には必ず先頭に立って動く指導者としての人格も学ぶことができました。今日、機会主義や個人主義風潮が蔓延しているこの時代、私がまずこのニコデモの求道者的信仰や人格を身につけることができますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン
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