天国に入る人の真の姿(マタイ3:5-10)

●バリサイ人やサドカイ人とは
今日も同じであるが、イエス様当時も神様を信じると言いながら、全く聖書の教えに相応しくない人たちが多かった。その代表的な人たちが、バリサイ人、律法学者たちである。彼らは、頭や口では、本当に素晴らしい信者のように見えたが、行動や生き方は、少しも神様に相応しくなかった。まずは高慢、偽善などが特徴である。それで、イエス様は彼らを厳しく批判した。マムシの子と叱っている。マムシは毒を持っていて関わる多くの場合人々を殺す、だめな人たちである。彼らは救われることはできない。いや一番厳しい地獄の刑罰が待つだけである。

●イエス様の激怒の理由と内容
6節に他の人たちはみんな罪を告白してバプテスマを受けに来たのに、彼らはその過程がなくバプテスマだけを受けにきた。これを見たバプテスマヨハネは、バリサイ人やサドカイ人への厳しい毒舌といい、非難している。7節にマムシの子といい、さばきのみ怒りを逃れられないとか、10節に斧がお前らのそばに置かれていて、近いうちに地獄の火に投げ込まれることになるので逃れることはできないと話す。このような表現を見ると、彼らが受けるべき裁きの厳しさと確実性について認識できる。同じ内容がマタイ7章にも登場する。

マタイ7:19良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。20こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

●私たちの疑問
①ここには悔い改めにふさわしい実を結べ(10節)とか、または天におられるわたしの父のみこころを行うも者(上記のマタイ7:21)が天国に入るという意味は何だろうか。つまり、イエス様を受け入れるだけでは足りないのか。何か行いをしなければならないのではないかという疑問が生じる。

②また私たちの周りでもイエス様を受け入れたのに、あまり変化がなく信仰における成長がないのはなぜなのか? ある人はすごく成長するのに、ある人はなぜそれができないのか? 

●現代版バリサイ人・サドカイ人
今日も同じである。神を信じると言いながら、十字架と違う生き方をする人が多い。人を神様に導くところか、人々を神様から遠ざけてしまう。イエス様を信じても生き方の変化がない。教会に来るだけの違いしかない。職場や学校などでの生活は一変する。聖書に合わない、神様に喜ばないことばかりする。こういう人たちは、外面では救われた人のように見えても、実は救われていない。救われたとしても生き方に、行動に実り、変化がない。

たとえば、嘘をつき続ける人、非難や中傷が多い人、人を憎み赦せなかった人、酒やタバコなどの中毒になった人、パチンコに溺れた人、口が悪かった人、こういう人が変わるか、良くない行動を繰り返さないようになる。こういう変化こそ良い実であり、天の父の御心に少しずつ近づいていく人々の姿である。こういう姿が救われた人に現れるべき実である。

●では、なぜこういう人が生まれてしまうのか。
そのことが、3章6,7節に出ている。皆さん、6節は普通の人々がヨハネのところに来るまともな姿、しかし7節には非難されたバリサイ人たちの姿である。なぜ、6節の人々は何も言われないでバプテスマを受けたのに、7節のバリサイ人やサドカイ人は、バプテスマを受けるところか、強くさばかれたのか。その理由は何だったでしょうか。6、7節でその違いを探してみてください。答えを言いますと、だったの1つ、罪に対する悔い改めがあるかないかである(6・7節)。6節の人々はちゃんと罪を告白し、悔い改めて、それからバプテスマを受けたが、バリサイ人はこの過程がなく、バプテスマという形だけを取って救いを得ようとしたのである。この一つの違いが天と地の差をもたらした。一人は救われ、もう一人は救われないようになった。

自分の罪に対する徹底的な悔い改めがあれば、人間は自然と変化する。神様が喜ばないことをしたくない、つまり完ぺきではないけれども天の父の御心を行いたいと思うようになる。いつかまた罪を犯すかも知れないが、それも次第にしなくなる。罪や悪への頻度が少なくなる。これこそが、生き方の変化、良い実ではないか。キリスト教は、良い行いで救われることはできないと明確に教えている。それよりは、救われたら自然とよい行い、実を結ぶと話す。それは、こういう悔い改めに伴う生き方の変化をもたらすからである。マタイ7:21節を見れば、まるで天の父の御心を行う人、つまり良い行いをしないと救われないと思われ、エペソ2:8-9節の救いは行いによらないという内容と矛盾するかのように考えられる。しかいs、実はこの二つは矛盾ではなく、同じことであることを知る必要がある。良いことをすれば救われるのではなく徹底的に悔い改めをしてイエス様を受けいれば、自然と生き方の変化(良い実・天の父の御心への願望)が生まれる。

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。マタイによる福音書 7:21

●救いへの誤解(イエス様を受け入れれば救われるのでは)
受け入れる祈りをすれば、自動的に救われる。それはない。いくらバプテスマを受けても良い行いをしても、救いはない。自分の罪の悔い改めをしてイエス様を救い主として、人生の主人として受け入れる必要がある。罪の悔い改めがあって受け入れる人と、それがなく受け入れる人は表面的には似ているかも知れないが、中身は全く違う。あんこのないぱん、無精卵と有精卵の違いのようである。罪への告白や悔い改めが抜けた形式だけのバプテスマや受け入れる祈りの唱えだけでは、中にいのちがない無精卵である。無精卵は生命力がなく、新しいいのちも生まれられない。外見は同じでもあんこのないパンを食べられるのと同じである。

●罪への姿勢と変化(罪の告白や悔い改めは必須)
罪を自然と行う人、繰り返す人、痛みを感じない人は罪への告白や悔い改めをしたとは思えない。むしろ罪を楽しむではなく、罪を嫌う、悲しむ、告白する。これが罪への明確な告白と悔い改めができた人の特徴である。

偉大な人、ダビデも罪を抱え込んで生きることはできなかった。彼は涙を持って悔い改める場面が多い。パウロも同じである。あんなによい人なのに、自分を罪人の頭で、罪や欲に支配されそうな自分を見て惨めな人間と告白する。しかし、多くの罪を知らずのうち犯している私たちは罪に無感覚で”別にそんなに悪くない”と思っているのではないだろうか。それは罪に麻痺されているからである。神経がマヒされると、痛みがわからないように、罪への感覚もマヒしていて、なかなか自分の罪を認識できない。

Ⅰテモテ1:15あなたの知っているとおり、アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました。その中には、フゲロとヘルモゲネがいます。

ローマ7:23私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。


悪魔の力の元は罪である。悪魔は私たちの罪や不信仰を食べて元気になる。罪は人間をさばきや地獄という永遠なる刑罰へ導く力をもっている。罪が人間をだめにした。神様との溝を作った。だから罪を簡単に受け入れてはならない。

本当に悔い改めた人は、罪に対し敏感になる。現代版のバリサイ人は、これが罪だと聖書に書かれているのかどうかだけを考える。つまり、明確に書かれていないならば、罪を楽しみたい。しかし、本当に悔い改めて救われた人は、それが罪かどうかよりは、神様が喜ぶかどうかで判断する。罪かどうかはわからなくても、神様が喜ぶかどうかはだれもがすぐわかる。

●最後の結び
昔も今も教会の中には、無精卵と有精卵の信者が混ざっている。私たちは表面的にはよくわからない。もちろん、罪への認識も悔い改めもなく、まるでいのちも生命もない無精卵のようになってはいけない。マムシの子のような存在のように、近づいている神の怒りの裁きを受け、火に投げ込まれることが決まっている、そんな信仰者となってはいけない。もう一度罪への悔い改めをしっかりしてそれから受け入れる、またはバプテスマを受けるなどのことが必要である。この最初のボタンをしっかりはめることが一番大事である。

・罪の告白と悔い改めの祈り
・イエス様の救いを確認し感謝

●結びの祈り
イエス様、きょうはダメな信仰の典型的な姿をバリサイ人やサドカイ人を通して教えてくださいました。本当に感謝します。どうか、私の中にもこういうバリサイ人のような姿があることを気づきました。もう一度、自分の信仰を振りかえ、真の信仰者と生まれ変わることができますように。そして神のみ怒りとさばき、火の池ではなく、神の救いと褒めをいただき、天国へ導かれる人へと成長できますように。感謝してイエス様のみ名によって祈ります。アーメン

ニコデモの信仰と人格

●ニコデモのイエス様との最初の出会い
ヨハネ3:3イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」

●ニコデモの2番目の登場:7章でユダヤ人が仮庵の祭り(かりいおのまつり)を迎えたときに、多くの人が安息日や割礼などの律法の問題でイエス様を捕まえようとしたとき
ヨハネ7:50彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。51「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
●ニコデモの3番目の登場:最後にイエス様が十字架にかかって死んだとき、キリストの遺体の始末をすること
ヨハネ19:39前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。40そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。

1.ニコデモという人の信仰(真理に対する真摯な姿、求道者的な信仰者)
彼は高官(最高法院のサンヒドリンの議員:72人中の一人)であり、バリサイ人で最高の律法学者、金持ちで、超成功した人である。しかし、それにも関わらず彼には真の満足はなかった。一般にバリサイ人がイエス様を信じるなんてありえない話である。求道者的な姿の人であった。そんな彼は前からイエス様の話を聞いていて、素晴らしい奇跡や癒し、その教えを見ると、どうもこれは普通の人間のわざではないことを知った。

3:2この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」

それで、ちょうどその時にその地域を訪れたイエス様の話を聞いて、彼はこの機会を見逃してはいけないと思って、イエス様にきた。多分人生に満足がなかった。求道の心でいっぱいであった。これが私たちが最後まで持ち続けるべき姿である。クリスチャンになっても同じである。神様の道を求め続ける姿勢は変わってはならない。彼は高官としての名誉、お金などすべてが揃っていても真の満足や平安はなかった。心の中の満足は外部の要素によらない。お金や名誉で一時紛らわすことはできてもそれで十分ではない。

彼はイエス様に会うために夜密かにイエス様を訪れてきた。そのだった一度しかないかもしれない機会を生かした。彼はイエス様によるたくさんの奇跡や教えを見て、きっとそこに救いの真理があると思った。この出会いで彼はイエス様を信じ救われたと思われる。神様の霊によって生まれ変わることができた。それはお母さんの体に戻って再び生まれることではない。この二度目の生まれは、人間ではない神様によることを知るようになった。このような人だけが神の国、天国に入れる。

3節には、神の国の話が出る。つまり、私たちには、この世の国と、神の国がある。目に見えるこの世の国だけがすべてではない。この世の国は体が死んだら終わる国である。この体は、両親からきており、両親も死に自分もいずれかは死ぬ。それでこの世の国、この世界は終わる。

しかし、この体が生きる間存在するこの世が終わると、今度は神の国(または地獄の国)が始まることを忘れてはならない。これは目に見えない、体が死んでも続く、永遠に存在する国である。この国には、どのようにして入ることができるのか。それは神様によって、キリストによって可能である。そのためには、以下にあるようにイエス様を通してもう一度生まれる必要がある。これが新しく生まれることである。一回目の両親からの肉の生まれが一番目の生まれとするならば、このキリストの十字架による2度目の生まれは、霊的な生まれと言える。結局、人間は2度生まれなければならない。一回は両親から生まれ、次は神やキリストによって生まれることである(ヨハネ3:16)。

16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

簡単に言えば、私たちの救いのために私たちの罪を背負って十字架で死なれたイエス様を受け入れることによって新しく生まれ、神の国に入るようになる。今はイエス様の十字架を受け入れることで私たちは簡単に神の国に入ることができるようになっている。体の生まれという一度だけ生まれた人は、2度の死を経験するようになる。それは、まずは体の死、その次は永遠の刑罰の地獄という死を受けなければならない。しかし、2度生まれた人、すなわち一度両親から生まれ、その後キリストによってもう一度霊的に新しく生まれた人は、一度だけの死で終わる。つまり、体が死ぬだけでその後は永遠の命をもらって神の国、天国に入るようになるからである。ニコデモはこの話を通してユダヤ教から改宗したと思われる。そして弟子たちのように、イエス様についていくことはできなかったが、ずっとイエス様の周りを離れなかった。そして何かあったときは、いつも現れてイエス様の側に立って働いた。伝承によると、彼はのちに信仰の働きをし、殉教したとも言われている。

2.彼の人格(信仰に基づいた犠牲と率先のリーダーシップ)
自分が必要な時だけではなく、イエス様が必要な時、困ったときには必ず現れた人である。特にイエス様が逮捕されそうになった時にも彼は現れたし、最後にイエス様が十字架で死なれた時にも、一番面倒なこと、遺体の処理や葬る時も彼が現れた。

自分が必要な時だけ現れて、人を利用する人ではなかった。彼はイエス様が、または人が必要な時にその人に近づき、犠牲を覚悟して助け、仕えていたはずである。今、私たちの周囲にはどんな人が多いだろうか。自分の必要のために利用価値があると思うときだけ現れ、利用価値がなければ去っていくのが普通である。こういう自己中心で機会主義的な生き方をする人は人間としてどこでも尊敬を得ることができない。でもある人は、人が問題ない時は現れないけど、人が困ったときには表れて面倒なことを自ら率先してしてする人がいる。こういう人が多い教会は幸いな教会である。しかしこういう人が少なくほとんどが自己中心的で機会主義的の人が多い。そんな教会は何の力も能力もない。指導者やリーダーシップは、こういうニコデモのような人である。大変なこと、厳しい時にもっと輝く人である。羊のために、人のために自分を自ら犠牲にして群れを引っ張っていく人、それがリーダーであり、牧師、牧者である。

結びの祈り
創造主の神様、きょうニコデモの信仰と指導者としての人格を通して多くのことを教えてくださり、ありがとうございます。求道者としての真摯な姿、とくに自分の身分・所有への覚悟の上、キリストを受け入れ、信仰の道を歩む姿から、信仰というのが何かを教えてくださいました。また、自分が信じる信仰やイエス様のために、大変な時には必ず先頭に立って動く指導者としての人格も学ぶことができました。今日、機会主義や個人主義風潮が蔓延しているこの時代、私がまずこのニコデモの求道者的信仰や人格を身につけることができますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン
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「神様に知られているという恵み」ルカ福音書19:1〜10

今日の話しはクリスチャンになって長い人にとっては何度も何度も聴いた事のあるはなしです。

それはザアカイと呼ばれる人がイエス様に出会って人生が180度変わってしまった話しです。

ザアカイは取税人の頭と書いてますね。
取税人とは税をとりたてる仕事です。
当時ユダヤの国は、ローマ帝国の支配下でした。

ローマ帝国は、支配下のユダヤ人から税金をとっていました。

取税人自身もユダヤ人だったので、
同じユダヤ人から非常に嫌われる仕事でした。

更に取税人たちは、ローマ帝国が決めた額より多くの金額をとって、それを自分の物にするという事をしていました。

取税人たちはそういう意味で、当時は、遊女や罪人たち同様に神様の祝福を受けるのに値しない人としてされていました。

ザアカイという名前の意味は、
「清い人」と意味らしいです。

ザアカイの気持ちをイメージするとどうでしょうか。

お金は非常に沢山もっています。

しかし、いくらお金を集めても埋まらない心の虚しさ。

金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、空しい。」(伝道者の書5:10)

と書いてある通りです。

そういう意味でザアカイはきっとコンプレックスの塊だったと思うんです。

だからこそザアカイは思ったのでしょう。

イエスキリストに出会えると人生変わるかも知れない!と。

自分みたいな嫌われていて悪いことばかりしている自分にも何か、何かを変えてくれるんじゃないか?

そんな期待をしてイエス様に会いに行ったのではないでしょうか?

人が神様を求める時の様子です。

なんかかわれるかもしれない、

一目みるだけで

ザアカイは群衆をかき分けてイエス様を見ようとした。

しかし、背が低くて見えない、

木があった!

もうのぼるしかない!

大の大人が木に登りますか?

絶対に登りませんよね。

それどころじゃなかったのです。

必死に登ってイエス様を見つめた瞬間、

ザアカイ早く降りてきなさい!

このイエス様の一言ですね。

何で自分の事知ってるの?
って思ったでしょうね。

嫌われもので、神様の祝福からもっとも遠いとされてた自分みたいな人間の名前を、イエス様は既に知っていた。

しかも、今日泊まりに来ることにしてると。

この瞬間、イエス様に出会ったザアカイは、救われた、そして変えられました。

そして悔い改めて、貧しい人にお金をほどこして、騙しとった人には4倍にしてかえします。と全く別の人間になってしまった。

救われた人間が結果として180度違う人間になってしまったいう話しです。

これは救われた結果、価値観が変わり行動が変わったとい意味があります。

決して人に施す事が救いの条件では無いという意味があります。



全ての人がザアカイみたいにコンプレックスに悩み、

自分は価値が無いと思っているのでは無いでしょうか?

私も人生の中で特に思春期の頃に、
そういうものを強く感じる時期がありました。


自分が秀でたと思っていたものが
周りと比べると大した事が無いと気づいてしまったのですね。

人と比べることで得る自信って非常に脆いんですよね。

状況によってすぐ変わる。

ザアカイと状況は違いますが、

本質的に変わらないと思うんです。

そんなコンプレックスを強く感じた高校生を過ごしてきた自分が、


大学生になって、イエス様に出会って、救われて、

本当に正しく自分の価値観を持つことができるようになりました。

それは、私という存在そのものに価値があると言うことを知ることです。

そして「私は神様に知られている」という価値。

この世界は、多くの人に知られているということが価値があるとされてますね。

有名人は沢山の人に知られているほど価値があると思います。


それよりも神様が自分を知ってくれているという事の方がどれだけ価値がある事では無いでしょうか?

全てを作られた存在ですからね。

僕が聖書を読んで、神様を知った、出会ったと思ってました。

神様は私を知っていて、そして導びかれたということが正しいんです。


神様に知られてるっていうこと自体が恵みなんだと感じて今日の説教に繋がりました。

その後ザアカイはパウロの伝道を助けて、カイサリアの主教となり平安に永眠したと伝えられています。

人生最高の喜びと体験的信仰(ヨハネ15:7-16)

<聖書箇所:ヨハネ15:7-16>
7あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
8あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
10もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
11わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
12わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
13人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
14わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
15わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
16あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

<初めに>
きょうの聖書箇所には、クリスチャンが結べる実について紹介している。実を結ぶとは、実際の信仰生活において神様の恵みを自分の身に体験するという意味である(16節)。神様のすばらしさを体をもって感じるという意味である。私たちは全部実を結ぶべき、いや結べるという、それが神様が私たちを救ってくださった目的であると話す。にもかかわらずそれがわからないというのは、信仰者としてはよくない。私が体験信仰の大切さを皆さんに最近何回か話していた。信仰がなぜ生ぬるいか、なぜ熱くならないのか、それはこういう体験的な信仰がなく、人のことしか聞かないので、それ本当かなと、そんなこと私に起こるわけがないとか、考えてしまう。しかし実を結ぶことは、証しであり自分の人生に神様が残した信仰のしるしである。私たちクリスチャンは、みんなそういうことをいくらでも経験できる存在である。きょうは、こういう体験的信仰について私の証しを中心に考えてみたい。ただ、私がしたということではなく、あくまでも神様が私の中でなさったことなので神様が栄光を受けるべきである。私はもっともっと実を結ぶべきなのに、実は弱さや怠けや不誠実によってそれがもっとできなかったことをここで告白する。ここでは、体験信仰の3つのことを考えてみたい。それは、祈り、みことばを守る(実践)、魂への愛について考えてみる。

●神の恵みと力による実、これは永遠に残る。私たちは最終的にそういう実を結ぶために努力すべきである。
●お金や名誉、欲に従って決めてはならない。使命、召命、神様の御心を追い求めるべきである。


1.祈り:救われたばかりの時、教会設立
祈りは霊の呼吸である。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています(Ⅰペテロ5:8)


祈りには神の力がある。悪魔を追い出すことも祈りの力である。私が最近あるところから聞いた証しであるが、ウガンダのある若い20歳ころのクリスチャン青年のことである。彼は生まれる前の母親の体内から、すでにサタンや悪魔を崇拝するグループの指導者である母親によって悪魔にささげられた人である。その母親は魔術や呪術を行い、また人の魂を破壊したり、悪魔にささげたりしていた。この若い青年も小さいころから悪魔のすごい力が出てきており、数々の悪魔的な活動を行い、人々の魂を破壊したり、人生をだめにしたり、死に追い込んだりしていた、彼の人生は血まみれの人であった。彼は数々の神秘な力を持っていて、時には体から魂が離脱して空中に上り、そこでほかの悪霊と一緒に、ある人やクリスチャンの魂、または教会の上に移動して、そこでその対象を破壊したり、悪魔的な働きをしていた。もちろん、彼がそういう破壊活動をすると、その反対側には天使も何人かいて、彼らと戦いをしたりしていたという。彼が空中で見たことによると、クリスチャンたちの祈りには、違いがあるという。ある人の祈りは、祈りが煙と一緒に上ってきては、本当にたばこの煙にようにすぐ消えてしまうことがあるという。祈りに集中できず、雑念、妄想、不信仰の祈り、またはすぐやめてしまう祈りなどはこの煙のような祈りである。実際、ヨハネ黙示録8:4にも同じ内容があります。

香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。(ヨハネ黙示録8:4)

主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。(詩編34:7)


またある人の祈りは、ほぼ天にまで上るが、最後のところで悪霊たちが蓋をかけることでダメになる残念な祈りがあること、もう一つの祈りは勢いよく天に昇っていき、神様の前に届く祈りである。この時に、悪霊はその祈りが天に昇れないように邪魔をする。しかし、反対では、聖霊はもちろん天使が助けてくれる。ただ、天使が元気に働く場合もあれば、天使が弱くなり、悪魔が強くときもある。それを具体的に言うと、クリスチャンの人が、強い祈りをしたり、信仰をもって生きたり、罪や悪から遠ざかっている場合は天使が強くなり、反対に悪霊は弱くなり働けない。しかし、クリスチャンの人が、不信仰のことをしたり、祈らなかったり、罪や悪を犯したり、神から遠くなると、悪魔が元気になり、反対に天使は弱くなるのでその戦いは失敗に終わる。もちろん、まともに信仰によって生きるならば、私たちは必ず勝利することも決まっている。また、彼は体から離脱して空中で見た時に神様との関係がよい人の上には、ふさがることもなく大きな穴が開いていたという。つまり、神とのやり取りに支障がないということである。この話は、100パーセント正しいとは思わないし、聖書に書かれているわけではない。しかし、全般的にはそういうこともあるのではないかという印象は受ける。あくまでも一人の証しであると思ってください。ただ、十分ありうるような話ではないかと思います。誤解はしないようにしてください。

2.戒めを守る:神様への従順は多くの恵みや祝福をもたらす。
私は大学生時代に、軍隊終わって大学に戻った3年生の秋に学校のクリスチャンサークルにて救われた。3ヶ月くらいの学びや聖書通読をしたのちに、自分でクリスチャンになるという決断をした。そしてすぐ一生懸命に祈り始めた。一つ目の祈りの課題は、正月に里帰りをしたときに、いつも行われる法事のことから守られるように真剣に祈っていた。私の家は、親戚の中の一番の本家であり、その上父親が亡くなっていたので、すべての法事、それも親戚の法事にまで私が主導的にしなければならなかった。親戚の中には、年取った多くの叔父たちがいて、法事に参加する。今までは何の抵抗もなく参加したが、クリスチャンになってからは違う。何とか逃れる道をずっと祈っていた。それから覚悟を決めて里帰りをした。その時に、ちょうど隣の家の若いおばさんが急死をしていて、私は家に着くなり、その家に行き、手伝いをするように言われた。それで一生懸命に手伝いをしてきて、翌日の正月と法事を迎え、私はドキドキしていた。その時に、一人の叔父が私に話した。あなたは昨日亡くなった人のお世話をしたので、法事に参加してはならんということばだった。私はほっとした。びっくりした。これは私の祈りの初めての答えだった。感動、感動だった。そのあとは、自分でその法事に立ち向かう力が生まれた。

もう一つ、私はその時に体験したのがある。それは神様のみことばに従うことであった。クリスチャンになったばかりの私は、気になることがあった。それは、私が大学に復学、戻るときにうそをついて復学したことである。大体、前期に復学できる起源は4月2日であった。しかし、私は軍隊が終わったのは、4月8日であり、わずか何日差で復学ができず、また一年を待たなければならなかった。それで、4月1日に軍隊が終わったという風にうその文書を出して復学をして、そろそろ一年がすぎるときだった。でも、私はこれが気になり、神様に祈った。そしてこのことを学長に正直に告白をし、それでだめでしたら最初から始めるつもりだった。私は学長あてに手紙を書いた。その時もドキドキしていた。でも、神様の前で正直になることで生きることがよいと思った。その書いた手紙を学長に送り、学長にどんな判断でも下してくださいと書いたので、その返事を待っていた。従順するのは怖がった。でも書いて手紙を送ったときにはすごく平安だった。それから何日後、返事が来た。そこには、”あなたは大丈夫、わかった。そのまま勉学に励んでください。問題にしない”と書かれていた。

このように大変だったけど、でも神様に従ったときにこの上ない平安と喜び、また素晴らしい神様への体験が心に刻み込まれ、それから信仰は熱くなり、神様との関係が深くなってきた。

狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。(マタイ7:13)

皆さん、選択は神様に従う方向へしてください。その神様のほうを取るのが狭い門である。一方、自分の欲や好み、またはお金や名誉、権力が優位になってしまう選択は、広い門への選択である。最初は、広いほうが素晴らしく、その見栄えもよく、本当にすごい道のように見える。しかし、その道はどんどん狭くなる。そしてその道に悪魔はいっぱいであり、多くのトラップがかけられている。成功したとしても、逆にその成功のゆえに滅び、堕落し、腐敗してしまう可能性が高い。しかし、狭い道は最初はみすぼらしいけど、どんどん広くなり立派になり、豊かな実が多い道である。平安と恵みと、神の力が伴う道である。どんなことがあっても、広い道は危ない。狭い道、神の喜ばれる道を選択することである。

欲に従って決めてはならない。神の御心を探すのに時間をかける。お金や名誉などに従って選択をするのは悪魔の罠であり、神様の試しでもある。それよりは、使命、召命、神様の御心を追い求めることである。16節に書かれている。実を結ぶように神は願うが、永遠に残る実と書かれている。人間によって作った実は一時的であるが、神様の実は永遠に残る。とくにその神様に従って、祈って得られた実は永遠に続くようになる。そういう実を私たちは結ぶことで、体に神様を刻み込み、熱いかつ堅い信仰者へと成長していける。

3.人を愛する:愛には多くの実が結ばれる。魂への愛こそ永遠に残る最高の実。

私はこういう体験をして、信仰が少し熱くなり、今度はこの神様の働きをしていきたいと願うようになった。それで、大学を卒業して中学校の先生になった私は、結婚をして学校から3分程度のところに住まいを決めた。そして、私たち夫婦はこれから伝道活動をすること、そして若い人たちを育てる活動をしたくなり、家内と私は家をオープンすることにした。多分、インネがが生まれたばかりの時から、一週間に何回でもいいから夜に若い人たちを迎え、食事のもてなしをし、交わりや勉強会をした。その時には、大体20から25人程度の若い男たちを私がお世話をするようになった。木曜日は全員集まる、他の日は個人的に家に来てもらって食事から始める。多分、一週間に多い時は4-5回夜の食事と交わり、少ない時には2-3回だった。夫婦だけとかの食事はすくなかった。その時は、学生、教師、神学生、医学部生、一般の社会人だった。今彼らは成長をして宣教師、牧師、医師、教授、教師などとなって世界のいろんなところで神様のために働いている。その彼らは今もその時のことを忘れず、私たちに感謝を送ってくれる。私たちは、彼らを本当に愛し、私たちのもっていることを用いて最大に務めたように思える。そのみじめな愛を用いて実を結んでくださった。皆さんも魂への愛、仕えなどをもって生きていけば、きっと愛は必ず豊かな実を結ぶようになる。

ヨハネ21:15 「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」 「わたしの小羊を飼いなさい。」

4.結びと祈り

天の父なる神様! きょう体験的な信仰の大切さについて学び感謝します。主は私が信仰による実を結び、それを体験できることを望み、あらゆる場でその実を結ばせようと助けておられます。きょう、祈り、みことばの守り、魂への愛という領域で実を結ぶことの大切さを学びました。どうか、この私の人生にも自分ではなく神様による豊かな実を結び、抽象的な信仰ではなく体験的な信仰へと成長し、もっと熱い信仰へと変化していけますように。もっと粘り強い祈り、厳しい状況の中でも主のみことばへの道を選択する信仰と勇気、魂のために情熱をささげていく真の愛に励みたいと思います。私の弱さを助けてください。それによって永遠に残る実を結んでいけますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメンKakaoTalk_20191006_143022079.jpg

「リンカーン」大統領の信仰十戒

第一は、私は主日(日曜日)を神聖に守り、礼拝生活に努める。
第二は、私は日々神の言葉である聖書を黙想し、その言葉を実践する。
第三は、私は助けを与えてくださる天の御父に日々謙遜に祈る。
第四は、私は私の思いではなく、神の御心に従う。
第五は、私は神が恵んでくださったことを覚えて感謝する。
第六は、私は弱いが、しかし神の助けに信頼する。
第七は、私は神だけを高くし、その方のみに栄光をあがめる。
第八は、私は神においてすべての人は自由で平等である信じる。
第九は、私の兄弟を愛し、隣人を愛するようにと言われた主の命令を実践する。
第十は、私はこの地上に神の真理と正義が実現できるように祈る。

悪魔に餌を与えてはならない

Ⅰペテロ5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

黙示録8:3また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。4香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。

テキストとしてはありませんので、興味のある方は次の動画をご覧ください。
https://youtu.be/o9Uq3-zl9-g