過去が未来を支配してはならない!과거가 미래를 지배해서는 안된다!

長い間の過去の敗北に縛られると、人は未来への希望が持てなくなる。
きょうの聖句で、神様は以前の敗北だけを思ってはならないと話す。思い出すならば、以前神がイスラエル民族をエジプトから連れ出す時のことを考えてほしいと話す。海を分けてイスラエルを陸地のように連れ出した奇跡である。
私という存在は失敗だらけであっても、神様はこの世になかった新しい、想像以上のことをなさる、なさった方である。その神は、あなたにも同じ方であり、またあなたにも似たようなことをなさることができる方である。
私の過去の失敗による不信仰に縛られ、今年も敗北で迎えるのではなく、過去も未来も同じで、誰にも同じことをなすことができ、何でもなすことができる神様を覚え、来年を希望と信仰を持って迎えよう。私を見つめれば失望と失敗ばかりの落胆に陥るが、神様を見るとそこには信仰と希望と勇気が見えてくる。
 오랜 과거의 패배에 지배당하면, 사람은 미래에 대한 희망을 가질 수 없게된다.  오늘 하나님은 이전의 패배만을 생각해서는 안된다고 말한다.  그보다는 이전에 하나님이 이스라엘을 이집트에서 데리고 나왔을 때를 생각하라고  말씀하신다.  바다물를 나누어 이스라엘을 육지처럼 데리고 나갔기 때문이다.  나는 실수와 실패투성이라도 하나님은 세상에 없었던 새로운 상상 이상의 것을 하시는 분이다.  그 하나님은 당신에게도 동일한 분이시며, 또한 당신에게 동일한 일을 하실 수있는 분이다.  내 과거의 실패에 의한 불신앙에 묶여 올해도 패배로 맞이할 것이 아니라 과거와 미래 구분도 없고, 누구에게도 같은 일을 이룰 수 있고 무엇이든 이룰 수있는 하나님을 기억하며 내년을 희망과 믿음을 가지고 맞이하자.  날 쳐다 보면 실망과 실패의 낙담에 빠지게 되지만 하나님을 보면 거기에는 믿음과 희망과 용기가 보인다.
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一年の振り返り(信仰の充電と放電)ローマ12章1-3

ローマ12:1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。3私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

去年の一年は皆さんにとってはどんな一年だったと思いますか。去年も皆さん、種は撒きましたか。実の収穫はどのくらいだったのか。祈って与えられたことはどのくらいですか。

人にとっては嬉しそうな一年だったかもしれないし、人によっては今年は最悪だったという人もいるかもしれない。罪や悪に触れて、神様に申し訳ないという記憶しかない人もいるかもしれない。ある人は、この一年の間に多くの成長を重ね、よい神様のクリスチャン、働き手として認められた人もいるかもしれない。

感謝も後悔も、また悔しさもあるかもしれないが、でも一年のことを通して私たちはいろんなことを学んだはずである。祝福を通して学ぶより、失敗や苦しみを通して学ぶほうが多い。大事なことはすべてが私たちの成長の材料となることができるということである。それぞれをよい形で用いることである。こういう一年という節目があるということは、来年には今年よりもっとよい成長を重ねる反省と計画をするためのことだと思う。

人生の悲しい告白は、”できるはずだった、すべきだった、するつもりだった”という話で終わることである。理想と実際の現実が全く違うようになってしまうことが多くある。私たちはいつか、人によっては近いうちに、一年ではなく人生そのものを締める時が来る。その時にわあつぃたちはどのような思いでいられるだろうか。

きょうの箇所、ローマ12章には実はいろんなことが書かれている。つまり、私たちの信仰生活についていろいろな内容が書かれている。信仰者としてどのように生きるべきなのか、何を大事にすべきかを書いている。

●1-3節:神様との関係においてどう生きるべきか
●4-8節:神様から与えられた賜物を用いてどのように生きるべきか
●9-21節:クリスチャンとして社会的な責任、つまり周りの人とどのような関係を保つべきなのか。

この中でも、きょうは1-3節を中心に考えてみたいと思う。

信仰というのは、何らかのケアをしない限り、必ずなくなり、変形していくものである。ほっといて成長する信仰はどこにもない。信仰は簡単に放電したり、破壊されたり、ずれてしまうものである。確かにこの世を生きていくときには、信仰は必ず放電する。信仰的環境がよいところではゆっくり放電するけど、信仰的によくないところではその放電は激しくなる。全部放電してしまうと、信仰者としての機能は停止してしまう。信仰はそのままほっといてしまうと、自然と放電する。しかし、充電は自然ではない。放電してしまうと、神様への信仰も、愛も、恵みもなく、人生はものすごくドライになってしまう。信仰へのやる気も、希望も、人生のうるおい、真の喜びと平安もなくなる。信仰にも罪にも、悪にも人生にも無感覚となり、また神様への反応もなくなる。いわゆる、ほぼ死の状態になってしまう。

聖書の中でもそういう例がたくさんある。イエス様の12弟子も、イエス様が十字架にかかる寸前みんなイエス様から逃げてしまった。放電しちゃった。イエス様と一緒にいるときは、イエス様から与えてもらい、何とか自分が弱くとも維持できたが、イエス様がいなくなると急におかしくなり、彼らは信仰を捨てて全部昔の漁師の生活に戻った。

旧約聖書の創世記にはアブラハムと一緒に信仰の地に向かっていたロトが自分の叔父、アブラハムと土地や所有のことではぐれることで、ロトは信仰の放電が始まり、結局彼はソドムとゴモラという罪悪があふれる都市に入り、最後にはその街へのさばきによって硫黄の火で燃やされ、妻が死ぬなどの家族を失い、生き残った彼は娘と逃げ命を得たものの、近親相姦により恥ずかしい民族モアブとアンモンを世に出した。旧約の有名な信仰の勇士、ダビデもそういう人だった。一時の間違い、淫乱に負けてしまい、信仰が完全に放電しちゃって、その結果、彼はのちに厳しい代価を受けるようになる。

このように、信仰は、この世のこと、特に罪や悪と触れると、放電が激しくなる。それでは、どのようにすれば放電を防ぎ、充電した忠実なクリスチャン生活を送ることができるかを教えている。もちろん、放電を防ぎ、充電をこまめにすることである。

家内と私は充電で全く違うタイプである。皆さんも家に何個か充電器があると思う。大体5-6個はあるのではないか。家内はいつも時間さえあればまじめに充電をしておく。私はそれができず、一回充電して放電するようになり、それから電話がつながらなかったりする。バタバタまた充電する。信仰においても、こまめに充電しておけば問題はないのに、日頃の充電ができず、いつも信仰放電の状態で生きる人が多い。その状態では、恵みも愛もなく本当にドライな生活である。

そこで、きょうのみことばには、その無駄な放電を防止し、信仰を充電する方法について話す。

①ローマ12:1節:霊的な礼拝に励むことで信仰は充電する
体が集まるのは、こういう教会のような肉的な礼拝である。そこで、本当の礼拝は自分を神様の喜ばれることにささげるところまでなることが、霊的で真の意味での霊的な礼拝である。神様に受け入れられるきよい生きた供え物となっているが、もともと供え物は死んだものである。棚の上に置かれた供え物が動いたりして逃げたりするとそれはよくない。だから必ず殺して供え物とする。私たち人間は体を殺すことができないので、生きた供え物と話す。ただ、生きてはいても供え物が自分勝手に動いたり逃げたりしてはならない。あくまでも神様に受け入れられるように自我を殺し、神様に従って生きることが必要である。これこそ真の礼拝、霊的な礼拝である。体が集まる礼拝も大事であるが、それを通して霊的な礼拝まで進むいうになることである。もちろん、家で一人ですることも礼拝の一つであるが、このように一緒に集まる肉的な礼拝が、少しずつ霊的な礼拝にまでなっていけば最高である。礼拝を通して、自分の体を、心を神様が喜ばれるところにしっかりささげることが必要である。礼拝をいい加減にしてはならない。こういう礼拝さえしない人が、他のことをよくするとは思えない。どんなことがあっても礼拝に励みましょう。

②ローマ12:2節:この世に調子を合わせず、神様の御心に調子を合わせることで、信仰は充電する。
神に調子を合わせるか、世に調子を合わせるか。それによって、充電するか、放電しまくりかになる。この世の人々の生き方、欲、罪や悪に合わせていけば必ず、放電は激しくなる。いくら充電しようとしても充電が間に合わない。なので、できるだけ放電を防ぎ、充電に回るためには神様の喜ばれる生き方に励むことである。しかし、信仰生活をすると、最初は良かったけど、時間が経つに連れて必ずずれていくのである。つまり、最初は神様に合わせて生きていったが、時間と共にこの世に付いていくようになり、だんだん神様から離れていく。

●信仰の道と世の道
世の道は下り坂であり、自然とほっとけば、ものは下り坂に入り転んで滑っていく。その最後は滅びの地獄である。
しかし、信仰の道は上り坂のようであり、自然には上り坂へものが転んでいくことはない。もちろん、その最後は天国である。
自然では信仰は下り坂へ転んで行くようになる。エンジンかけなくても自然と転んでいく。でも上り坂へ上っていくためには、努力やエネルギーが必要である。この前、私が自然の法則の一つとして、エントロピー増加の法則があると話していた。それは、この世のすべては、自然では無秩序の方向に流れるということである。反対を言うと、無秩序から秩序に流れを変えるためには、努力やエネルギーが必要であるという意味である。皆さんの家を掃除しないでおけば、必ず自然に散らかる。でも片付けをしようとすると、エネルギーが必要である。だから怠けのものは掃除をしないで自然体にいるので散らかる。信仰も同じである。

ある日曜学校で牧師先生が子供たちに質問をした。皆さん、どうすれば天国に行けますか。子供たちは答えた。ある人は、神様の話を聞く、いいことをする、イエス様を信じるなど、いろいろと出た。今度は、皆さん地獄に行くためにはどうすればよいと思うと聞いた。すると、悪いことをする、罪を犯す、教会にこない、など色々出た。どころで、最後に一人の子供が答えた。先生、”何もしなければ地獄に行きます”と答えた。子供とは言えない、すごい答えだった。たしかに、何もしないで自然体でいれば、人間は自然と地獄に行くようになる。皆さんが、この世に生まれて、神様に対し何のアクションも起さず、何もしないで自然体で皆さんがしたいこと、欲に従って生きていけば、見事に地獄に行くようになる。何もしなくてよい。悪魔はそうささやいている。あなたは一生の間、何もしないであなたが好きなことを自由にすること、それが最高の生き方であるとささやく。しかしその結果、滅びの地獄は100%自分のものとなる。

③信仰はみ言葉や祈りによって充電(ローマ10:17) 
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。


信仰は祈りやみことばによって充電される。時間があれば、こまめにみことば、祈りに励むことである。長くなくても大丈夫。

④交わりによって充電する(伝道者の書4:9-10)
9ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。
10どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。


私たちは、上の神様とみことばや祈りを通して交わるが、しかし横の兄弟や姉妹などのクリスチャンとの交わりを通してももっと信仰が充電される。縦方向や横方向のつながりがしっかりできれば、充電は切れることなく続くようになる。

今年、皆さんはどのように生きましたか。放電ばかりではなかったですか。こまめに充電を行ってきましたか。充電もしないのに、激しい放電が予想されるこの世に密着してすべてを放電し、信仰や愛、恵みを失って世を生きてきてはいませんか。放電しまくりだったかもしれない。またあまりよくなかったかもしれない。それほど充電ができていなかったかもしれない。しかし失敗したならば、来年はもっと信仰の充電をこまめにするようにすればよい。そういう人生や計画をしてみよう。きっと素晴らしい信仰充満の一年となるだろう。来年1月12日は、新年会で、その日には計画も立てたりします。何も計画しないで、それで何もしてないという人生はよくない。もちろろん、計画があまりできない時もある。しかし、10個立てて1個しかできなくてもそれは成長にはつながる。何も計画立てずに何もしないことよりははるかによい。

去年の自分の生活を振り返り、新年には信仰充電の一年として生きるようにしましょう。最後に祈って終わりましょう。

結びの祈り
天の神様、きょうは去年一年を振り返り、どのような生き方をしたか、考えてみました。人によっては放電しまくり、充電をまじめに行っていない人もいれば、人によってはまじめに充電を行い、その力で潤いも平安も、またクリスチャンとしての働きもできた人もいます。どうか、こういう経験を踏まえ、来年は信仰の充電と放電のバランスを取ることができますように。むしろ充電にこまめに力を入れる一年とすることができますように祈ります。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン

クリスマスの喜び

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:11)

 人々はクリスマスを楽しい日だと思う。たまに聖書がわかる人は、キリストの誕生と言う。もっと聖書が分かる人は、クリスマスは神が人間となった日と話す。それは人間を神に導くための唯一の方法とも理解する。つまり、神が人間となることで人間が神に行くことができるからである。人間が神に行くという救いは最高の祝福であるが、神が人間となるのは苦痛の極みである。


 人々はクリスマスはプレゼントをもらう日だと思う。それは正しい。しかし、イエスは見えるものではなく、目に見えない永遠のプレゼントを与えるために人間となった。それは死んでもなお生きることのできる永遠のいのちである。ものより体の命、さらに永遠のいのちこそ究極のプレゼントだからである。

人々はクリスマスはわたしと関係ないと思う。しかし、聖書はクリスマスは、すべての人間のための出来事と書く。一人でも滅びることは神の喜びではないからである。ある人は、クリスマスのことを通して、キリストを迎え入れ、永遠のいのちという真のプレゼントを受け取る。そして最高の喜びと幸せの救いを手にして人生を毎日クリスマスのように生きる。

🔵クリスマス賛美とキャロル

🔵クリスマスメッセージ
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最初のクリスマスの姿!

博士達は星の案内を受け、遠い道を通ってやっとイエス様のいる場所へたどり着いた。最初のクリスマスのお祝いは、ヘロテ王のキリストを殺そうとする脅威の中で敢行された信仰の行動であった。また、彼らはイエス様のところに着き、数々のよいものを捧げ、ひれ伏し拝むことで終わった。これが真のクリスマスの精神である。

첫 번째 크리스마스의 모습!

 박사들은 별의 안내를 받아 먼 길을 통해 겨우 예수님아 개ㅔ시는  곳에 도착했다.  첫 번째 크리스마스 축제는 헤로테 왕의 그리스도를 죽이려는 위협 속에서 감행 된 믿음의 행동이었다.  또한 그들은 예수님이 계신 곳에 도착하여 수많은 좋은 예물들을 바치고 엎드려 경배하는 것으로 끝났다.  이것이 진정한 크리스마스의 정신이다.
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われらと共にするために人間として来られたたインマヌエルのイエス様! 임마누엘의 예수남!

本来神であるイエス様は、人間とともにするために、わざと人間の形をとって世に生まれた。そうして最後はわれらの罪を背負って十字架で死ぬことでわれらを救うために世に現れた。このため、神から人間に転落したイエスは、一生不自由に制限され、苦しみの人生を送られたのである。その恵みに感謝するクリスマスであってほしい!

우리와 함께하기 위해 인간으로 오신 임마누엘의 예수님!

 본래 하나님 이신 예수님은 인간과 함께하기 위해 일부러 인간의 모양으로 이 세상에 태어나섰다
.  그리고 마지막에는 우리의 죄를 짊어지고 십자가에서 죽으심으로 우리를 좌에서 구원하기 위하여 이 세상에 태어나셨다. 하나님으로부터 인간으로의 전락한 예수님은 평생 부자유에 제한되어 고통의 인생을 보내신 것이다.  그 은혜에 감사하는 크리스마스가 되기를 기도한다. 
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信仰の成分とは(믿음의 성분)

信仰はみことばなしには生まれない。つまり、信仰の中身を分析すると、結局みことばであり、そのみことばから出る美味しいエキスによって心は潤い、信仰が形成される。

信仰という綱は、みことばによる一つより、二つより、みつよりになるにつれて、ますます強くなる。クリスチャンのいのちは、信仰であり、その信仰は聖書のみことはからくる。何らかの形でみことばが心に蒔かれない限り、信仰は成長しない。信仰は時間の問題ではなく、みことばの種が我が心に蒔かれ、生長しているかどうかにかかっている。きょうも何とかみことばに触れ、それが信仰の種として生長できることを祈りたい。

믿음의 성분

 믿음은 하나님의 맔슴없이는 생기지 않는다.  믿음의 내용을 분석하면 결국 말씀이고, 그 말씀에서 나오는 맛있는 엑기스 의해 믿음이 형성된다.

 신앙의 밧줄은 말씀 한가닥 또는 두가닥 혹은 세가닥이 엮어져서 점점 강해진다.  그리스도인의 생명은 믿음이고 그 믿음은 성경 만은에서 온다.  어떻게 든 말씀이 마음에 뿌려지지 않으면 믿음은 성장하지 않는다.  믿음은 시간 문제가 아니라 말씀의 씨앗이 내 마음에 뿌려져 성장하고 있는지 여부에 달려있다.  오늘도 어떻게 든 말씀에 접하고 그것이 믿음의 씨앗으로 자라갈  수 있기를 기도한다.
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多くの人の救いへのつまずきの石や遮断壁とは! 많은 사람들의 구원의 걸림돌과 차단벽!

なぜ多くの人が救われることができないのか。そのつまずきになるのが何なのか。きょうの聖句には、行ないによって救われようとすること自体が1番大きなつまずきの原因であると話している。

今もほとんどの人はよい行ないによって救われるだろうと思いこんでいる。そう思いこんでいる人さえ、行ないに励むこともしなく、またできるという自信もないのが明らかである。当然その思いに支配される限り、いつまで行っても救いには至れない。つまり、こういう思いは、救いへのつまずきの石や遮断壁となり、人々が救いに入ることができないようにしてしまうのである。

구원의 걸림돌과 차단벽 !

 왜 많은 사람들이 구원받을 수없는 것인가.  그 걸림돌이되는 것이 무엇인가.  오늘 멀씀은 행위로 구원하려고하는 것 자체가 가장 큰 걸림돌이라고 말한다.

 지금도 대부분의 사람들은 선한 행위로 구원받게 될 것이라고 생각한다.  그렇게 굳게 믿고 있는 사람조차도 행함에 힘쓰고 있지도 않을 뿐더러 , 또 행함으로 구원받을 수 있다는 자신감도 없슴이 분명하다.  이런 허무한 생각에 지배되는 한 언제까지 가도 구원에는 이르지 못한다.  즉, 이런 사고는 구원의 걸림돌이자 차단벽이되어 사람들의 구원을 가로막고 있다.
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蒔くことからあなたの信仰は働き始める(ガラテヤ6:7-8, ローマ8:4-8)

ガラテヤ6:7思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。8自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

ローマ8:4それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
5肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
6肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
7というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8肉にある者は神を喜ばせることができません。


●人間の生き方と種まき・四季
皆さんは今どのような種を蒔いてきましたか。そしてその結果どのような木が成長し、そこからどのような実を結び、刈り取りましたか。誰もが何らかの種を蒔き、その実を食べているはずである。ある人は、他人が一生懸命に種を蒔くときに、まったく種を蒔けず苦しみの無果実で苦しむ人もいるかもしれない。とにかく私たちは自分が蒔いた種を食べて生きる存在である。

このように人間にとって種を撒き刈り取ることは終わりなく続く。それは人間の生き方の普遍的な原理である。この原理は人間の生き方だけではなく、神様の霊的な面においてもそのまま適用される原理である。

一般に、春に種まき、夏に成長、秋に刈り取る、冬に休んでそれを食べることである。でも種を蒔かないと、夏も、秋もいらなくなる。

多分、人間は生まれてからすぐ実を結ぶために種を蒔き始める。3歳くらいから幼稚園、保育園、それから小学校、中高を経て大学まで通いながら未来の食のために知識を習得する。それも足りなくて今度は様々な修業をしたり、資格を取ったりしながら種まきをしている。なんと25年またが30年近くそういう種撒きをして、それから約30年近くをその実を食べて生きる。肉のための種まきであり、もうこれで十分ではないのと言われるほど長い。なのにまたそれからも死ぬまで肉のために生き続けることは果たしてどうだろうか。

●どんな種を蒔くか
それではどんな種を蒔くべきか。細かく話をすると、その種類は多すぎて話ができないので、ここでは大きく二つの種を紹介している。一つは、肉の実を結ぶ種、もう一つが霊の実を結ぶ種である。つまり、肉のために蒔くか、霊のために蒔くかである。

ガラテヤ8自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

・肉のために蒔くとは:死の実を結ぶようになる。もちろん、私たちは肉をもって生きているので当然この肉が生きるのに必要な種も蒔く必要がある。ご飯を食べるためにも、必要最低の生活のためにも必要である。ここで肉のために蒔いてはならないというのは、あくまでも生活に必要以上の欲を満たすためにすることである。または自分の名を知らせ、贅沢をするために蒔くこと、楽を求めての種まきを指している。肉のために蒔いたものは、そこから雑草、虚しさという死という滅びの実を結ぶ。またその人生は雑草などで茂るようになる。

肉のために蒔く:・必要のために蒔く(これは必要である)  ・欲のために蒔く(これこそ注意が必要である)

以下が肉のために求めることの代表的なことである。

Ⅰヨハネ2:15世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。16すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。


・霊のために蒔くとは:神様の御心、その国や義のために蒔く
霊のために蒔いたのは、真の喜び、永遠の実、いのちの実を結ぶようになる。イエス様は私たちにこういう実を結ぶのに力を入れるように願っている。

ヨハネ6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」

・たとえ話(いのちの木・善悪の木)
聖書の中の創世記のエデンの園には、二つの木があった。一つは、命の木、もう一つは善悪の実の木(死の木)である。どころが、命の木はいつでも食べてよいが、善悪の木は種手はならないという風に言われていた。この木は食べたら死ぬ木なので当然警戒すべきである。なのに、エバは毎日のように死の木に近づき、ついそれを取って食べ今度は夫までダメにしてしまった。なぜ、彼女が誘惑に負け死の木のみを食べ、どんでもない苦しみと代価を受けるようになっただろうか。それは、死の木は以下のみことばにもあるように、まず見栄えが良いこと、好ましいこと、ほしくなるような魅力を持っていた。しかいs、命の木は、まったくそういうことがなかった。見栄えも、ほしいほどのよさもなかったかもしれない。

創世記2:9神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。

創世記2:16神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。17しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。


私たちの周りにも、こういう二つの木が広がっている。多分、肉の種による死の木は見栄えもよいだろう。何かの魅力を放っているだろう。しかし、霊の種による命の木はそれほど見栄えも、魅力も感じられないかもしれない。それで、ついつい肉の種と死の木について行ってしまいがちなところがある。でも簡単に死の木の実を求め、肉の種を蒔いてしまうことは注意すべきである。

●結び(これから心掛けたい)
①みことばに反応することから霊の命の種まきは始まる:志・祈り・従順・行動
みことばは種だと聖書は話す。まずは、聖書の命の木の実が私の心に蒔かれることで、私もよい霊的な種を蒔くことができる。よい種を蒔くためには神のみことばが先に私の心に蒔かれる必要がある。そのみことばに私が反応するときによい種を蒔くようになる。一般に、みことばが私の心に蒔かれると、そこから私の心の中に志が建てられ、そしてそのために祈りたくなるし、いつかはそのために決断や従順をするようになる。つまり、みことばの種・志・従順・行動はセットでつながっている。

ピリピ2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

・すべての出発はみことばである。
・死の木となる欲にあおられて何かをするのではなく、みことばに基づいていのちの木のために種を撒き、育て、そしてそのいのちの木からの実で豊かになることを祈りたい。

②命の木であるイエス様と密な関係を保つことで種は生長する
ヨハネ10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

イエス様はヨハネ15:5でブドウの木であると言われた。別の言い方では、イエス様は命の木であるという意味である。この命の木であるイエス様にしっかりついていれば私たちも豊かな人生を生きるようになる。これからイエス様としっかりくっついて生きていきましょう。
結論的には、私たちは日ごろのみことばに小さくても反応することから、霊の種を撒き、そこから命の木による豊かな実を刈り取ることができる。みことばに反応するクリスチャン、そしてイエス様と共に生きるクリスチャンとして歩めるようにしましょう。

最後に祈ります。
天の父なる神様! きょうもあなたのみことばと恵みを感謝いたします。私たちの目の前には、滅びの死の木といのちの木が広がっています。しかしどうしても見栄えの良い滅びの木のほうに目が生き、その種を蒔きたくなり、またそれに一生をかけようとする誘惑があります。私たちがそういう誘惑によってではなく、命の木であるイエス様とそのみことばに反応して生きる人となりますように。またそのために人生をかける判断力と勇気を与えてください。今年もいろんな実をくださり感謝です。来年度ももっと命の豊かな実を結ぶ一年として始めることができますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン
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最高かつ最強の愛に繋がっているあなたは幸せな人!(韓国語続く)

この世には強いもの、怖くて恐ろしいものも多くあります。しかし、それらはしばらくの間存続し、やがてはなくなります。しかし、神様の愛は永遠になくならない、最強のものです。ここには[力]ではなく[愛]から引き離すことができないと書かれています。力は人格がないが、愛は人格であり、最高の関係を意味します。そんな関係に繋がっているあなたは最高に幸せな人です。きょうもそんな愛に感謝して過ごしましょう。

세상에는 강한 것, 무서운 것도 많이 있습니다.  그러나 그것들은 잠시 동안 존속하고 결국은 없어집니다.  그러나 하나님의 사랑은 영원히 없어지지 않는 강한 것입니다.  여기서는 [힘] 대신 [사랑]에서 끊을 수 없다고 적혀 있습니다.  힘은 인격이 아니지만, 사랑은 인격이며, 최고의 관계를 의미합니다.  그런 관계로 연결되어있는 당신은 가장 행복한 사람입니다. 오늘도 그 사랑에 감사하며 삽시다.

 
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自分を罪に定めてはならない(良心の呵責より神に感謝を)! 자신을 정죄하지말라

多くのクリスチャン、ノンクリスチャンを問わず過去の罪による呵責やその裁きの刑罰に対する恐怖に苦しむ人が多い。過去の罪こそどうしようもなく手を打つ方法がない。だからこそ絶望感を感じる。しかしきょう聖書は断言する。キリスト・イエスの中に入っている人は、決して過去の罪によって責められたり、罪に定められ苦しんだりすることはない。あなたに代わってキリストがあなたのすべての罪による侮辱や刑罰を受け、あなたを「罪による罰の律法」から完全に開放したからである。あなたはむしろ、神様の愛やキリストの十字架のことに感謝をささげ、その方のために生きる新しい心で満たされればよい。
많은 기독교인, 비 기독교인을 막론하고 과거의 죄의 가책이나 그 심판의 형벌에 대한 두려움에 시달리는 사람이 많다. 과거의 죄야말로 어쩔 수없이 해결의 방법도 없으니 더더욱 절망을 느낀다. 그러나 오늘 성경은 단언한다. 그리스도 예수 안에있는 사람은 결코 과거의 죄로 말미암아 책망하거나 정죄하믕로 고통받아서는 안된다고 선언한다. 당신을 대신하여 그리스도 께서 당신의 모든 죄의 모욕과 형벌을 받아 당신을 "죄의 형벌의 법"에서 완전히 해방했기 때문이다. 당신은 오히려 하나님의 사랑과 그리스도의 십자가에 감사를 드리고 그분을 위해 사는 새로운 마음으로 충만하면 된다.

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人間の限界と弱さ!

人間は強いと思う反面、実は非常に弱いというか、人間という存在としての限界を持っている。例えは、人間は何をすべきで、何をしてはならないという判断力は持っているが、しかしいざとなると、人間はすべきことはしないで、逆にやってはならないことをやってしまう存在てあることに気付く。ときには、絶対にやりたくないと決心をし、何回も近いを立ててもいざとなると、変なことをしてしまう。もがきをしても変らない。

聖書は、こういう人間の矛盾に対し明快な説明をしてくれる。それがきょうの聖句である。人間には、誰しもが抱えている罪というものがある。その罪の力は想像以上に強く、人間がまともに生きることがてまきないようにする。つまり、やるべき善なることではなく、やってはならない悪に支配されるようにする。

罪の強い力によって人間の中には、やりたいけどやれないという自己矛盾が生まれ、人間を苦しめる。その苦しみはときには深刻であり、最終的には人間を裁きに導き、永遠の滅びにまで連れて行く強力で破壊的である。

ところが、すべての人間は例外なくこういう罪を持っていると書かれている。聖書はまたこういう罪の問題だけてまはなく、その解決に対しも教えている。
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罪・悪魔・永遠の滅びの世界にとどまってはならない!

上にあげた罪・悪魔・永遠の滅びの3つは、繋がっている永遠の死と絶望をもたらす[死のセットもの]である。しかし、その反対は義・神とキリスト・永遠の天国で、永遠の希望をもたらす[いのちのセットもの]である。

人々は自然と死のセットのほうを好み、その力に縛られ生きていくしかない。この力はあまりにも強く自らは切ることができない。キリストの力なしには不可能である。暗闇を追い出せるのは他ではなく光である。

人の中に[いのちのセットもの]が入れば、自然と[死のセットもの]は消えていく。今日も多くの人は、この死の鎖から離れずその奴隷として生きる。しかしその結果は永遠の死である。そこから、キリストの神に仕え、永遠の救いのきよき実を結ぶようにしようではないか。
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キリスト者の幸せと喜びの理由

人間の常識の一つは、行いがあって不法や罪が赦され、さらに救いを得るということである。しかし行ないを持って考えると、すべての人は救われるところか、むしろ裁かれ罪の罰を受ける可能性が圧倒的に高いという事実に気付かない。確かに行ないについて話すと、それは救いと災いを同時に生み出す可能性があるが、実際は救いより滅びをもたらす可能性が遥かに高くそこから真の幸せや救いの確信は得ることができない。

聖書は行ないから救われようとする人は真の救いや希望も、また赦しや幸せもなく、むしろ絶望に落ちるしかないと教えている。また聖書は、不確実な私の行ないの代わりにキリストの十字架での行ないとそれを受け入れる私の信仰によって救いと罪の赦しを得ると約束している。そこから真の喜びや感謝があるというのが、今日の聖句である。これが行ないがなく得られる赦しと救いによる幸せや恵みである。
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真の平和と恐れとは?

真の神を知らないと、真の平和への誤解が生じる。つまり、戦争や喧嘩さえなければそれですべては平和だと信じる。しかし、真の平和はそれとは違う。
生きているキリストの神との和解なしには、死後に押し寄せてくる裁きとその後の永遠の罰による災いから逃れる道がないということになるからである。そういう状態に置かれることは決して真の平和だといえない。真の神との和解による見えない永遠の平和を手に入れることが必要である。
こういう事実を知らないのでキリストの神への恐れがなく、だから真理に目をむけるより自分が好きなまま生きるようになる。
恐れはあまり良くないと思うが、恐れは大事である。予防的な恐れは真の平和をもたらすからである。反対に恐れを持たない無知はしばらくの平和感に浸かるかも知れないが、しかし結果的に永遠の取り返しのつかない真の恐ろしさに遭遇するようになる可能性が高い。真の平和と恐れを正しく知ればすべては変わる。それはあなたを真の平和に導くはずである。前もっての恐れは真の平和をもたらし、平和ボケは恐れをもたらす。
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真の平和と恐れとは?

真の神を知らないと、真の平和への誤解が生じる。つまり、戦争や喧嘩さえなければそれですべては平和だと信じる。しかし、真の平和はそれとは違う。

生きているキリストの神との和解なしには、死後に押し寄せてくる裁きとその後の永遠の罰による災いから逃れる道がないということになるからである。そういう状態に置かれることは決して真の平和だといえない。真の神との和解による見えない永遠の平和を手に入れることが必要である。

こういう事実を知らないのでキリストの神への恐れがなく、だから真理に目をむけるより自分が好きなまま生きるようになる。

恐れはあまり良くないと思うが、恐れは大事である。予防的な恐れは真の平和をもたらすからである。反対に恐れを持たない無知はしばらくの平和感に浸かるかも知れないが、しかし結果的に永遠の取り返しのつかない真の恐ろしさに遭遇するようになる可能性が高い。真の平和と恐れを正しく知ればすべては変わる。それはあなたを真の平和に導くはずである。
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異邦人の求めることと生き方(マタイ6:24-34)

●今日のお金の位置:神様同等の力や威力を持っている
間違いなくお金は生きていく上において必要なものであり、なくてはならないものである。お金さえあれば、信仰といのち以外はほとんど解決できるほどその力は大きい。したがって、多くの人はお金のために人生をささげるようになる。お金のためならいのちも考えずになんでもする人が多い。

●お金が奴隷なのか、お金が主人となっているか?
お金が主人ではなく奴隷になっているときは、一番よい働きができるが、お金が主人となるときは、お金は狂った暴君となる。

●お金とサタンの戦略:現代社会は拝金主義というか、お金に仕える金宗教が世界や日本を圧倒している。みんな将来への不安を感じ、お金を何とかしなければならないという焦りにとらわれている。悪魔はお金さえあれば、何でもできると話す。お金が最高だと教える。そして悪魔はそこに入り込んで多くの信者を倒す。

●神ではなくお金・仕事に仕える:お金に仕えるとは、別の意味ではお金につながる仕事に仕えるということである。仕えるとは、主従関係がはっきりしているという意味である。つまり仕事をするのではなく仕事中毒、お金中毒という形に発展することが危険である。仕事ならばお金のことならば何でも赦されるみたいな雰囲気、考え方が危険である。

・お金に仕えた結果:信仰が破壊、健康破壊、家庭破壊、幸せが破壊。それで、こういう破壊されたのを最後は修復するために、また稼いだお金を全部使い切る。それで、得たものなく失ったことばかりの後悔で人生を終える。

Ⅰテモテ6:10金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

●聖書の中にもお金に対する話が多いが、警告が多い。
それはやはりお金によって信仰がつぶれた人が多いからである。というのは、きょうのマタイ福音6:24にもあるように、神とお金の両方に仕えることができないと話している。

マタイ福音6:24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

必ず神か金のどちらかにしかできず、もう一方には愚かにするしかないということである。つまり金に仕えすぎると、神や信仰からは離れるしかないという構造となっている。実際多くの人が信仰から離れる理由が大体こに問題である。金に仕えすぎて神や永遠のいのちまでを失うという悲劇がいろんなところで生まれる。

●異邦人の求め方や生き方:異邦人とは、本当はイスラエル人以外の方を指すが、ここでは神様を信じない方の総称である。衣食住を第一に求める生き方、またお金に仕える生き方。つまりお金にしたがっていろんな行動をするし、お金のために何かをする。
①信仰に生きるクリスチャン:富より神に仕える ②信仰のない異邦人:神より富に仕える ③愚かで信仰の薄い人:両方に仕えるが、結局は信仰から離れる。

マタイ6:31そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。32こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

●信じる者に対する神の約束
ピリピ4:19また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

ローマ8:32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

・鳥や花の例話:マタイ6:26、30
野の花やゆり、空の鳥も神様が守り、導いてくださっているのに、まして神様の愛され、もっと尊いあなた方は当然神様によって守られるのではないか。つまり、異邦人ではないならば、衣食住への確信を持って、それよりもっと大事なこと、神の国と義、使命、伝導、働きのことを心配すべきではないかという叱りである。野の草や鳥にも満たない生き方で大丈夫なのかというか、鳥や草があなた方を見て笑うのではという話である。


●信じる者の求め方と生き方:主の祈りにあるように、み国がきますように。また日ごとの糧を与えてくださいと祈るべきである。ただ、祈りはしても、衣食住を人生の一番の位置、つまり神より上において生きるようなことはしない。

●神の約束を信じ神の国と議、または使命を第一に求める:衣食住ではなく神の国と議を求める。すろと、衣食住のことは神が責任を取ると約束されている。祈りはしてください。しかし、そのことで信仰をだめにするような生き方はやめてください。私たちは、衣食住が目的ではないし、そのために生きることでは充分ではない。それが使命でもない。もっと私たちがしなければならない使命があるはずである。それを最後まで求める必要がある。

マタイ6:33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
エペソ2:10私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。


●聖書的お金への価値観の確立:①私達はお金の主人となる必要がある。②お金は何かの手段であるのでそれを用いてもっと神の国に用いられること。③お金は使うために稼ぐ。漠然とお金をくださいではなく、そのお金をもって何をするかが大事であり、それを求めていく必要がある。そうすれば必要なお金も与えてくださる。備蓄のためではなく使うために稼ぐ。よく使うと神様から与えられる。たとえば、自分の生活だけではなく、献金、寄付、他の人に仕えることにも用いる。また、お金の中心の選択をしない。無駄をなくし善なるところに使う練習をつけるべきである。

箴言11:24ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。25おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。


Ⅱコリント9:10蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

上でばらまくとは、むやみにお金を使う意味より、自分の生活以外にも神や人のために使うという意味である。そうすると、むしろ豊かになる。過度にケチしてもむしろ乏しくなるばかりである。

2コリント9:10では、お金を使い方を種蒔きに例えている。蒔けば、2つを与えられる。1つは、種、つまり実を生産できる環境や機会を与えてくださる。もう1つは、今すぐの食べるパンを与えてくださる。完ぺきな祝福ではないか。

<結びの祈り>
天の父なる神様! きょうは異邦人の求め方やその生き方について学びました。信仰をもって生きる者として異邦人とは違う求め方や生き方をすることになるはずですが、残念ながらそういうことができず、異邦人と同じ考え方や生き方、求め方をしたことを大いに反省し、悔い改めます。どうか、これからは信じる者として、衣食住のために生きるのではなく、もっと神の国とその儀、または使命を求めて生きることができますように。お金の奴隷ではなくお金の主人として生きることで、信仰においても生活においても祝福され、人生を立派に全うすることができますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン