なぜ神は善悪の木を作り、人間を罪の罠にかかるようにしたのか(創世記2:16-17)

創世記2:16神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。17しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

まずは、この善悪を知る木がなかったならば、人間は罪を犯さず、問題なく神とよい関係の中で今まで生きただろうか。

①善悪の知識の木は、人間を制限する、拘束する、罪の罠にかけるためのものではない。
善悪の知識の木なくても、人間はいくらでも生きられる。必須ではなかった。ただの欲である。99.99%自由が与えられた。たった一つの制限がこれである。したがって、まずは人間を罪にかける罠ではないということは明らかである。つまりただの誘惑に惑わされただけ。

②人間と神、自然などとの関係やその役割を教えるため
すべてが何もない状況、すべての始まりだったので、神は人間や神ご自身における役割や位置をしっかり教える必要があった。

神様はこのような制限、「善悪の木の実を食べてはならない」という条件を設けることによって、人間がエデンの園や万物の主人ではないということ、つまり人間は神の権威の下にいるという一番重要な事実を覚えてほしかった。人間の高慢とそれによる悲劇は人間が自分の位置やポジションを錯覚することによって起こることが多い。サタンも自分のポジションを忘れ、神の座に自分を置くことによって神から永遠に離されてしまった。もちろん、自分の周囲にある動物や植物との関係もわからなかったので、神はそれらを支配し、管理するように役割を与えた。また、自分の上には神がいるので、それに従って生きる、またその神との関係を大事にしていきるようにするためである。毎日、この木を見てそれらを認識して、生き続けることを願っていたのである。

③善悪の木の実は、関係接点維持のための紐

まず、神様はこれによって人間が道徳的な自由と責任、またご自身に対する正しい霊的な関係を保つことを願われた。人間関係においても、必ず一定の礼儀や適切なルールというものがあります。例えば、夫婦関係にも親子関係、会社の仲間関係にも見えないルールがある。このようなルールは、人間の自由を制限するためではなく、これを守ることによって、秩序と平和のある、よりよい関係を保つようにするためである。これが、神様が人間に善悪の木の実を食べないようにと命じた目的だった。

もちろん、ここで、善悪の木の実そのものが大切なのではない。むしろ、その実に対する人間の態度がどのようなものであるのか、ということが大切である。この実に対する人間の反応は、人間が持っている知恵、道徳的な能力、神様に対する霊的な能力など、人間が持っているすべての能力の総合的な産物である。もちろん、これに対して、人間は神様が与えられたいろいろな能力に基づき、自らの自由意志によって、神様の命令に従うことも、従わないこともできた。神様は、人間をロボットとして造られたのではなく、人間自らの判断と選択によって、神様に従うようにと願われたからである。

④善悪の木の実は、絶対的な善悪を教える(罪、関係破壊、死)
人間に神との良い関係を保つことを願うが、反対にそれが壊れることもあることを教えた。神に背くことが、罪であるということ。それを、「的外れ」といい、罪の定義とする。つまり、善と悪が存在することを人間に教えた。現代の多くの人は、絶対的な善や悪はないというが、それは違う。そして罪の結果、人間は死ぬということもしっかり教えた。それはすぐ体の死があるという意味ではない。もちろん、いつか体が死ぬのも罪の結果であるが、それに先経って、罪によって人間は神から断絶されてしまう、つまり交わりや関係が切れてしまうというのが、「死」の意味である。それで、人間は救いから外れ、さまざまな苦労を経験するようになった。もちろん、神はそういう人間を再び、救いに戻すために、どんでもない苦労をするようになる。人間に自由意思を与えることによる、神の愛と苦労はもっと大きくなる。それでも、神はそういう人間を愛し続け、最後にはキリストを十字架にまでけけ死なせるなどの大きな犠牲と苦労をする。ここに神の愛がある。

神様はこの善悪の知識の木を通して、まったく何もわからなかったアダムやエバに、罪や人間の死ということを教えた。アダムやエバが罪を犯す前までは、罪がなかっただろうか。アダムとエバから罪が始まったという意味は何だろうか。ここで、「善悪の知識の木」となっているが、その意味を考えてみよう。実はアダムとエバが罪を犯す前にも、罪はあったはずであるが、それを実感はしていなかった。つまり、神に背くことで、死ぬということを神から言われても、意味が分からなかったはずである。それで、彼らが自ら実を撮って食べることで、今までの頭だけのぼやっとした理論的な知識から、罪の経験をすることで、初めて罪を実感するようになったという意味である。幼児が熱いといっても、知識的に理論的に話すだけではわからない。だから、実際手をもって熱いものに触れさせて、それを経験的に知らせる。そういう意味である。人間は愚かな存在で、ひどい経験を通して分かることが多い。人間は罪にどう向き合い、どのようにして神と良い関係を保っていけるか、知るようになったはずである。


<結びの祈り>
天のなる神様!きょう創造における神様の深い摂理と、それに込められた神様の願いを知ることができました。自分の形に造られた人間に対する深い愛と、交わりへの強い期待を知ることができました。しかし、自由を得た人間は、なかなかその願いに従わず、神様の愛は多くの障害物に出会います。しかし、神の愛は弱まることなく、キリストの十字架にまで進みます。今も私達に限りなく、近づいてきて、愛を示される神様の愛に、私も答えることができるよう祈ります。選択の自由とはいえ、少しでも神の愛に答え、その神様との交わりを楽しみ、近づき続ける人間としてください。イエス様のみ名によってお祈りします。アーメン

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