高慢と謙遜がもたらす結果(Ⅰ歷代21:1-3)

ダビデの人生における大きな罪
➊性的な堕落(Ⅱサムエル11):ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバを奪う。そしてその夫のウリヤを殺す。これは、肉の欲による罪である。

➋人口調査(周りの全ての国を全部降伏させた):ダビデが王となり、周りの国々を征服し、国力が最高になったときに、突然人口調査を行った。これは、暮らし向きの自慢、つまり高慢の罪である。

ダビデは、男としてよくはまる二つの罪に引っかかってしまった。そしてその罪の代価はあまりにもひどかった。数々の反乱、苦しみに出会うようになった。罪は赦されたが、しかしそれによる代価は受けるようになる。罪は瞬間あだったが、結果は長く酷かった。

ダビデのように、この2番目の罪、高慢は単純な罪より、はるかに怖い。というのは、その王の罪の代価として、民に伝染病が広がり、7万人が死ぬという惨事が起こった。罪はただでは済まされない。

ここで、ダビデの高慢の罪はなんだろか。
昔イスラエルがエジプトを出て、カナンに行く荒野でもモーセによる人口調査を子なった。その時はまったく問題にならなかった。つまり、モーセの高慢による問題ではなかった。その時は、神様から言われた。また、戦争に臨むためであった。今は神様は言われたのではなく、悪魔に言われた。また今は戦争を始めるのではなく、戦争がほとんど終わってからのことで、戦争と関係ない。つまり、こんなにすごい結果が、神ではなく自分の力によるという高慢にあった。神より人間の力を信頼しようとする姿勢の現れであった。
それで、部下のヨアブがそれを感知し、やめさせようとしたが、聞いてくれなかった。
心の中の高慢は、私たちはわからない。神様は知っている。

このように、高慢の罪は、自分だけではなく多くの人にも甚大な被害を与える。
高慢の実は、滅びである。高慢な者は、神にも人にも敵を必ず作る。
そして様々なトラブルを巻き起こす。

ダビデはの自分が罪を犯したのに、民がその罰を受けるようにした。それもおかしい。自分の罪を認めないと可笑しい。その後、彼はそれを認めて悔い改める。

Ⅰペテロ5:5 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。


水曜日祈祷会のメッセージ:イスラエルがカナンに行く途中の荒野での不信仰について、三つがあると話した。彼らは、大変なことがあれば、すぐ神と「争う」・「試みる」・「エジプトに帰りたい」という。ここで、「争う」は、高慢の現れである。「試みる」は、神を自分の願いに合わせて操ろうとする罪である。

高慢の根は、人間の欲やエゴの塊である自我にある。つまり、高慢の父は、自我である。高慢と自我は絶対死なない。人間の中でも一番扱いにくいのが、自我である。絶対に素直になってくれないのが自我である。一番子供っぽい。ある意味、素直かもしれない。
ただ、しばらくの間、死んだふりをする。一日何回もよみがえる。イエス様も三日目によみがえったのに、自我は一日何十回でも復活する。絶対死なせることはできない。

そして、この自我は人間のさまざまな問題、対人関係、対神関係に問題を引き起こす。
自我はうるさい、絶対に静かにしない。いちいち、文句を言う。いちいち、嫉妬する。いちいち、自己主張をする。俺、ここにいるぞ! 俺も無視しないでよと。

この高慢は神様との関係を破壊する罪である。信仰自体を破壊する。
この高慢がひそかに心に入ると、その時から信仰は下り坂になる。
大体これはある程度の成功を収めてから強く生じる問題でもある。

天路歴程の中にも、「屈辱の谷」、「謙遜の谷」がある。
そこは、谷を降りる時、滑ったりすると、その後必ず悪魔アブルオンが現れる。そして、厳しい戦いが始まる。天路歴程の主人公、クリスチャンも降りる時に、滑った。それで悪魔との死闘が始まった。その谷は、下り坂といって気を付けないといけない。楽だと思って、いい加減にすると、滑る。むしろ、上るときより、下るときにもっと謙遜にならなければならない。だから、下るときは、身を低くして、屈める姿で降りる必要がある。彼は、その手前の「美しい家」で、多くの交わりをして、気分が高揚していて、不注意することで問題は起こった。

それでは、高慢や自我を殺すことができないし、死なないし、私たちはどうすればよいのか。

①感謝と恵みを知ることである。自然と謙遜が生まれる。自然と高慢は弱まる。
感謝と恵みが結婚すると、謙遜の子どこが生まれる。

奇跡は感謝である。病気にかかって治る奇跡を経験するほうがよいのか、それとも、病気にかからない奇跡がもっとすぐれているのか。今の皆さんは平凡である。それこそ最高の奇跡である。毎日が奇跡の連続ではないか。平凡というのが、最高の奇跡。それが続きますように祈ろう。

高慢を殺すことはできないが、恵みと感謝があれば、高慢の座る場所がなくなる。
今の自分の存在や結果が、恵みであること。誰よりも祝福されたと思うこと。

●あるフィリフィン宣教師の証し
彼はもともと韓国で神学を学び終え、アメリカに留学に行くつもりだった。そして帰ってきて、偉い牧師になろうと思った。それで、記念旅行としてフィリフィンに行くようにした。そして、せっかくなので、貧民街にも行ってみることにした。そこには、ことばで表現できない暮らしがあった。家らしい家もなく、小さく汚い空間に多くの家族が生活をしていて、便所もほとんどない。そこで、ひとりの女の子が見えた。彼女は、足が切断されていた。食べ物もない。しかし笑顔でいた。彼らは一生懸命に働いても一日1ドル、100円程度しか稼げない。その女の子は、虫に刺されそれが炎症を起こし、それでひどくなって足を切断するまでになったと話した。100円200円程度の薬、抗生物質がなくて、このようになったことを見ると、本当に衝撃を受けた。

神様は心の中で彼に話しかけてきた。この人たちは、あなたと全く関係ないのか。違う、彼女たちはひょっとしたら、あなたの代わりにこうなったかもしれない。彼らだって、自分がそこに生まれることを選択して生まれたのではない。あなただって、ここに生まれたくて生まれたのではない。つまり、彼はあなたの代わりにここにいる。その代わりに、あなたはよいところで生まれ、祝福されている。彼らも国籍、生まれる場所を選ぶことはできなかった。

そこで、神様はあなたが行くところは、アメリカではなくここではないかと言われた。嫌だった。自分の自我、高くなりたいという高慢、野望をすてることに強い抵抗があった。その後も何かかそこを訪れながら、彼は神様に自分のすべてをゆだねることにし、ことばもわからないまま、フィリフィンに宣教師として行った。神の恵み、感謝を知り、それだけではなく、彼らが自分の代わりになっていることを悟って、彼は謙遜に自分のことを捨てるようになった。その後、教会を始めた。最初は何もできずに、ただ貧民街ということもあり、韓国からたくさん物資を集めては、彼らに配ることがほとんどであった。でもそれらをいくら行っても、救われる人が出た来なかった。ある日、彼らが密かに話すことを聞いてショックを受け、彼は宣教の方針を変えるようになった。彼らは、教会ではなく、教会をスーパーまマーケットだという話をしていた。彼らは本当に貧しいので、教会に献金なんてありえない。いつももらうことが使命だった。でも、宣教師は彼らに献金を求めることにした。本当のクリスチャン、信仰者はいくら苦しくても、神様にささげる訓練、人に与える訓練が必要だと感じたからである。それで、彼らは怒った。こんなに貧しい私たちに献金を求めるなんてと。でも、それをずっと話し続けた。やがて少しずつ献金をするようになった。そこから真の信仰への感覚が芽生えてきた。本当にわずかな金額であっても、神様にささげること。また、貧しくても、自分たちのお米を少しずつ教会にもってきて、集めて自分たちよりもっと貧しい人々に配るようになった。それから、彼らは真の信仰者として生まれ変わった。同じく貧しいが、しかし顔は違う。肩に力も入った。小さいが、神に人に与えるということから、自負心を感じ、信仰が何なのかが分かったからである。もちろん、宣教師も伝道のために仕事を始めた。言葉が分からなかったから、彼が始めたのは、死んだ人の葬式を自分で最初から最後まで行うことだった。フィリフィンはカトリックの国なので、人が死ねば必ず神父さんを呼ぶが、お金を払わないと、きてくれない。それで、彼は無料で葬儀をした。死んだ人の死体を拭いて、棺桶に入れ、葬式するすべてを行った。人々は、この愛にも感動して集まり始めた。その中の一人のやもめの証しである。彼女はこどもが二人いる。だからもっと厳しい生活をしていた。それを見た、韓国から来た一人の訪問者が、約3万円程度を寄付した。彼女はそれが尊すぎて使うことができなかった。ずっと保管していた。ところが、教会も少しずつ人が増え、教会を立てるようになり、可能な範囲で献金をお願いした。すると、このやもめは悩み始めた。自分がもらった3万円(一日1ドルを稼ぐ人にとっては大金)を、彼女は悩みの末教会建築のための献金としてささげるようにした。それで、一気に協力が広がった。その証しを聞いた、韓国のある教会の長老さんが心を打たれ、彼女のためにその金額の20倍もの献金を彼女にしてくれた。その長老さんは話した。このやもめは誰よりも私に信仰が何かを教えてくれた。私は使って余ったお金で献金をしようとした。私たちは献金はあくまでも自分の生活の次に考える。しかし、この女は命を削って献金をした。

一人の宣教師の恵み、感謝、謙遜、自我を乗り越えた証しである。

コリント15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

②高慢の心に同調しないことである。
ダビデも悪魔の声に従わずに、神のことを考えるべきだった。
人間の心には、多くのよくない思いが出入りをしている。それらを全部防ぐ方法はない。大事なことは、そういうよくない思いが自分の心で巣を作って子供まで生まないようにすることである。また、その思いに従って行動をしない、同調しないことである。

この高慢というもう一人の私は、いつも私を誘惑して、私を自分と付き合うようにする。そして、私の水準を欲張り、子供の水準に引き下げようとする。その付き合いを賢くするべきである。

<結びの言葉>
わたしたちの高慢、自慢は、自分も人も気づきにくい、あまり罪としない。しかし一番の問題であり、悪であり罪である。そしてこの高慢によって多くの問題が起こり、神との関係が損なわれる。高慢は悪魔の一番親しい友である。神のなさったこと、人の助けを知らないで、すべてが俺に起因するという自慢である。そうではない。今の私のいのちなどの一番大事なところは、ひたすら、神様、そして親などの他人にある。自分は謙遜であるべき。しかし、この謙遜は、神の恵みと感謝を知らないでは、生まれない。

結びの祈り
天の父なる神様、自分の自我や欲、悪魔にあおられ、思いあがって高慢になってしまうことが多くあります。それは、神様との関係を壊し、一心で神に近づきゆだねる信仰に問題が生じます。どうか、こんな自我、欲、高慢の罪をお赦しください。心から自分という存在が受けた神の恵みを知り、感謝あふれる人生となりますように。そして、高ぶる心に同調することをせず、謙遜な態度をもって歩めますように。もっと神様を信頼し、この世を歩むことができますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン

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