信仰者に起きる、驚くべき霊的な事実(ルカ3:21-23)

ルカ3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
23 教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子、順次さかのぼって、

21 Now when all the people were baptized, it came to pass, that Jesus also being baptized, and praying, the heaven was opened,
22 And the Holy Ghost descended in a bodily shape like a dove upon him, and a voice came from heaven, which said, Thou art my beloved Son; in thee I am well pleased.
23 And Jesus himself began to be about thirty years of age, being (as was supposed) the son of Joseph, which was the son of Heli,


1.イエス様の体験
1)イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると(私たちには救いの意味)

私たちも、イエス様を救い主として受け入れることで、神の子供となる。

ヨハネ1:12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

ヨハネ黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。


心の戸を開けるならば、イエス様が私の中に入る。それは後で出てくる、聖霊が私の心に入るという意味である。とりあえず、心を開いてイエス様を受け入れれば、天が開かれると以下では話す。つまり、天国へ入れるようになったという意味である。

2)イエス様の祈りが終わると、
①天国の門が開ける(天が開け):新しい人、時代、使命、存在としての始まりという意味。


天国が開かれる。つまり救われるようになる。
神との関係(親子の)が始まる
開かれた天国は閉じない。
ただ、この関係を続けないと、サビることはあるかも。


②聖霊の内住(聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られる)
イエス様を受け入れると、聖霊が私たちの中に入る、つまり内住する。

ローマ8:9けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

私たちが、「アバ、父。」と呼べること自体が、私の中に聖霊がおられるという証拠である。聖霊によらず、神を父とは呼べない。

③神からの声を聴く(あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ)
私たちもクリスチャンになったならば、自分が救われた者だという確信が必要である。または、自分はアk身に愛されている人だという確信が必要。それを霊的なアイデンティティともいう。この確信がないとずっとふらふらするようになる。イエス様には、以下の二つのことを神様から言われた。

●愛されること:これは私たちがイエス様を受け入れるときに、始まる神の愛である。

私たちもイエス様を受け入れた時に、神とつながり、天国が開かれ、救われた者となった。そして、神の愛を受けるようになった。イエス様も何かをしたから愛するとは言っていない。生き方や行動の評価をして、愛したわけではない。私たちも同じである。何かをしたから愛されるわけではない。ただ、神様の子供となっただけで救われるようになった。神の愛は、神様との関係によって生まれるので、私たちの行いや生き方の評価の上に与えられるわけではない。この神の愛は、条件付きでもなく、何かによって変わるか、薄くなることもない。まるで、空気のようなものである。多分、天国の空気かなと思う。私が何をしたかによって変わらない。この愛に対する確信があるから、逆に私たちは安心して、人生を前向きに生きることができる。良いことも、よい行ないもできる。しかし、その反対、即ち何かをして評価されてやっと愛されるようにはなれない。永遠にそれは、無理である。

もちろん、たまに愛の神様の愛が、形を変えることはある。喜び、または愛するから悲しみになったり、愛するから忍耐したり、また愛するから聖なる怒りを表すときもあるかも。しかし、どんな形であれ、それは愛である。

この神の愛は完全、強い物であり、この愛は切れることがない。私たちの救いもこの愛に土台を置いているので変わらない。

ローマ8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。


●喜ばれること:これは私たちのクリスチャンとしての行動や生き方と関係がある。
愛されるのは間違いないが、しかし相応しくない行動や生き方をすると、神に喜ばれないことはあるでしょう。できれば、私たちは愛されるだけではなく、喜ばれる人にもなれるようにする必要がある。以下にそれについて話している。

エペソ5:1ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。2また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。3あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。10そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。


<結びのことば>
イエス様が公的な働きを始めようとするときに、天が開かれ、そこから聖霊が下り、同時に天から声が聞こえてきた。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」という声である。これが霊的な正体性の確認である。子供が親に対し、このような確信がないと、自信をもって生きていくことができない。そして自分との戦いに悩むようになる。今日、私たちクリスチャンは、神様からこの声、みことばからの声をしっかり聴く必要がある。この声は、信仰者の始まりとも言える。私が神に愛される子供、神に喜ばれる子供であるという確信である。これはイエス様が何かの働きをする前にあったことばである。まだ働きをしていない始まりの時に与えられたことばである。つまり、素晴らしい、立派な働きをしたから、このような評価や声を聴いたわけではない。私たちも、立派な子、従順な人として、あるいは何か凄いことをしたから神から愛され、評価されることではない。あなたの存在そのものが神に喜ばれ、愛されるということである。私たちはよくこのような評価をもらうのは、すごいことをしてからだと勘違いしている。しかし、信仰者はその反対である。あなたが、神に喜ばれ、愛されているから、あなたは神と共に何かをすることができる。きょう、あなたも、神に愛され、喜ばれるイエス様を通して救われた、それゆえあなたも神に愛され、喜ばれる存在となった。この確信をもって信仰者として生き始めよう。つまり、これが無条件の神の愛である。真の神の愛である。これこそ、あなたの信仰の出発点である。

<結びの祈り>
天の父なる神様、イエス様が働きを始める前に起きた出来事を通して、霊的な意味を学ぶことができました。天国の門が開け神様と一つになり、その神様とのやり取りをもって働きをされたこと、また聖霊が下り、イエス様と共にされ、様々な働きをされたこと、さらに神様から愛され、喜ばれる神の御子としての使命を全うされました。私たちも、イエス様を受け入れることにより、イエス様に起きたような出来事が起きたことを明確に知ることができますように。イエス様を受け入れる祈りを通して、天国の門が開かれたこと、そして私たちの中の永遠なる助け主の聖霊が内住されたこと、さらに神の声である聖書のみことばを通して、自分が神に愛される子どもであるという、声をしっかり聴くことができますように。そして私たちは神様に喜ばれる子供として毎日成長していけますように。このような確信やアイデンティティをしっかり持って、信仰者として歩めますように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン

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